『アトリエ ~海の見えるアトリエ~』

第四章 技法と魔法

 それから数日、透子の放課後は少し形を変えた。

 終礼が終わる。  由衣に「今日は?」と聞かれる。  透子は「少し寄るところがある」と答える。  美術室には顔を出したり、出さなかったりする。  出したとしても、長居はしない。榊に課題の進み具合を聞かれ、曖昧に答え、由衣のスケッチに二、三言だけ助言して、鞄を持って出る。

 それから校門を抜け、駅とは反対側へ歩く。

 古い商店街を通り、坂道を下り、雨上がりの石畳を踏み、海の匂いが強くなる方へ向かう。

 蒼は、晴れた日は広場にいた。

 折りたたみ椅子に座り、膝にスケッチブックを乗せ、通りすがりの人や港の景色を描いている。小さな札には相変わらず、似顔絵、描きます、と書いてある。依頼が来る日もあれば、誰も足を止めない日もある。

 曇りの日や、風が湿りすぎている日は、海の見えるアトリエにいた。

 白い建物の二階。絵の具の匂いと潮風が混ざる部屋。窓辺のカーテンがいつも少し揺れていて、床には古い絵の具の染みがある。机の上には水入れと鉛筆、壁際には画集と紙束。イーゼルには、その日ごとに違う描きかけの絵が立てかけられている。

 透子は、そこへ通うようになった。

 通う、と言うほど大げさなものではないかもしれない。けれど、三日、四日と続くうちに、商店街の人たちは透子の顔を覚え始めた。魚屋の店主は「絵描きの子の友だちか」と言い、八百屋の女性は「今日も下まで行くの」と声をかけた。喫茶店の佳乃は、透子を見ると何も聞かずに、路地の奥を指差すようになった。

 透子は最初、その距離感に戸惑った。

 この街の端では、蒼はすでにそこにいる人間だった。学校では誰も知らない少年が、商店街では「絵描きの子」として自然に受け入れられている。魔法使いだと知っている人がどれだけいるのかはわからない。おそらく、ほとんどいない。

 けれど蒼は、日常の中にいた。

 雨上がりの石畳に椅子を出し、絵の具を溶き、子どもや老人や買い物帰りの人を描く。時折、魔法とは関係のないことで店主にからかわれ、困ったように笑う。

 その姿を見るたびに、透子は少し不思議な気持ちになった。

 魔法という言葉は、まだ彼の周りで浮いている。

 けれど、筆を持つ蒼の手は現実のものだった。

 その日の放課後、空は久しぶりに明るかった。

 朝から雨はなく、雲の切れ間に青が覗いていた。梅雨明け前の晴れ間は、まだ完全な夏ではない。光は強いが、空気には湿り気があり、遠くの建物の輪郭が少し霞んでいる。

 透子が広場に着くと、蒼はベンチの近くでスケッチブックを開いていた。

 今日は依頼人はいない。彼は自分の左手を描いていた。膝の上に置いた左手を、右手の鉛筆で写している。手の甲、指の関節、爪の形、皮膚の影。簡単な練習のようだった。

 透子は後ろから覗き込んだ。

「親指、短い」

 蒼の鉛筆が止まった。

 彼は振り返らずに言った。

「第一声がそれ?」

「だって短いから」

「こんにちはくらい言わない?」

「こんにちは。親指が短い」

 蒼は少し笑った。

「そんなに?」

「実物より二割くらい短い。あと、人差し指と中指の付け根の位置が揃いすぎてる。手はそんなに整ってない」

 透子は蒼の左手を指差した。

「ここ。中指の付け根の方が少し高い。薬指は逆に落ちる。手の甲の骨の流れを先に取った方がいい」

「骨」

「見えてる形だけ追うと、指が貼りついたみたいになる。中に骨があると思って描く」

「なるほど」

 蒼は消しゴムを取った。

 透子は横に立ち、彼の手元を見た。蒼は言われたところを素直に消し、薄い線で手の甲の流れを取り直す。飲み込みは早い。透子が一度言うと、すぐに意図を理解する。だが、基礎の抜けが妙に多かった。

 人物の表情や空気を捉えるのはうまい。けれど人体の構造や、透視図法の基本になると、ときどき驚くような間違いをする。

 透子は最初、それが不思議だった。

 蒼の絵には、人の心を掴む力がある。魔具を使っていなくても、何かが残ることがある。なのに、手の構造や重心の取り方は、独学の癖が強い。

「湊くんって、ちゃんと習ったことないの」

「絵を?」

「うん」

「少しはある。でも、三崎さんたちが学校で習うみたいな感じじゃない」

「どんな感じ」

「見て描け、って感じ」

「雑」

「雑だよね」

「それで描ける方も変だけど」

 蒼は消した線の上に、新しい線を重ねた。

 今度は少しよくなった。親指の長さも自然に近い。手の甲の骨の流れも、さっきより見える。まだ指先が少し硬いが、形としては成立してきた。

「良くなった」

 透子が言うと、蒼は小さく頷いた。

「三崎さんが言うと、本当に直るから不思議だ」

「直るところを言ってるだけ」

「それができるのがすごいんだと思う」

「すぐそういうこと言う」

「すごいものはすごい」

「褒めればいいと思ってない?」

「思ってない。たぶん」

「たぶんって何」

 蒼は答えず、また紙へ向かった。

 透子は少し離れた花壇の縁に腰かけた。鞄を膝に置き、スケッチブックを取り出す。今日は蒼に教えるだけでなく、自分も描くつもりだった。

 広場には、午後の光が斜めに入っていた。

 白い壁に淡い影が落ち、喫茶店の看板の下で風鈴が揺れている。石畳は乾き始めているが、目地にはまだ水が残っている。花壇のマリーゴールドは、数日前より少し元気になっていた。雨を吸った葉が濃い緑に見える。

 透子はその光景を、描くならどう切り取るか考えた。

 広場全体を描くと散漫になる。喫茶店の白い壁と、石畳の水跡を入れるなら、画面の奥に港の隙間を少し入れると抜けが出る。人物を入れるなら、蒼を背中側から小さく置く。白いシャツが光を拾う。木箱とスケッチブックが視線の中心になる。

 考えながら、透子は鉛筆を止めた。

 また、組み立てている。

 いつもの癖だった。

 けれど今日は、それを完全には否定しなかった。蒼に技法を教える中で、技術が無意味ではないことを少しずつ思い出していたからだ。形を取ること。構図を選ぶこと。光を観察すること。それらは人を騙すためのものではない。見たものを、自分の手で掴むための方法でもある。

 問題は、それだけで終わらせてしまうことだった。

 蒼は手のデッサンを終えると、紙を透子の方へ向けた。

「どう?」

 透子は立ち上がり、近づいた。

「最初よりかなりいい。でも、まだ手首が弱い」

「弱い?」

「手が空中に浮いてる。手首から腕につながってる感じが薄い。ここを少し太くして、影を入れる」

 透子は自分の鉛筆を取り、紙の端に簡単な手の構造を描いた。

「まず大きな箱として手の甲を取る。そこに指が刺さってると思う。指一本一本を別々に描くとばらばらになるから、最初はまとまりで見る」

 蒼は透子の描く線をじっと見ていた。

「早いね」

「慣れてるから」

「迷わない」

「構造がわかってるところは迷わない」

「わからないところは?」

「迷う」

「三崎さんでも?」

「当たり前でしょ」

 蒼は少しだけ意外そうな顔をした。

 透子はその顔を見て、軽く眉を上げた。

「私のこと、何だと思ってるの」

「何でも描ける人」

「失礼」

「褒めたつもりだった」

「それは褒め言葉じゃない」

 蒼は困ったように笑った。

 こういうやり取りが少しずつ増えていた。

 最初の日、透子は蒼の言葉一つ一つに警戒していた。魔法。別の場所。魔具。どれも現実から少し浮いていて、聞くたびに足元が揺れた。

 今も、完全に慣れたわけではない。

 けれど、蒼自身は思ったより普通だった。

 絵の基礎を間違えれば困った顔をするし、直せば嬉しそうにする。鉛筆の先が折れれば少しだけ眉を寄せる。喫茶店の佳乃に「ちゃんと水飲みなさい」と言われると、素直にコップを受け取る。

 魔法使いという言葉は、まだ彼の一部でしかなかった。

 そのことが、透子を少し落ち着かせた。

 別の日には、アトリエで人物の重心を教えた。

 その日は、蒼が近所の老人を描いた絵を見せた。広場のベンチに座る老人。帽子を膝に置き、杖を横に立てかけている。表情はとてもよかった。目元の緩み、口元の力の抜け方、少し前に出た首。老人が午後の時間に身を任せている感じが出ている。

 だが、身体の重さが足りなかった。

「椅子に座ってるのに、座ってない」

 透子は言った。

 蒼は絵を見直した。

「浮いてる?」

「少し。腰の位置が曖昧だから。座ってる人を描くときは、どこに体重が乗ってるかを考える。お尻と椅子、足の裏、背中。そこに重さがある」

「顔ばかり見てた」

「それはわかる。顔はいい」

「顔は?」

「顔は」

「厳しい」

「優しい方だよ」

 蒼は苦笑した。

 透子は椅子に座って、自分の姿勢を示した。

「たとえば、今の私なら体重はここ。背中は椅子につけてない。だから腰が少し前にある。足は床についてるけど、右足に少し重心がある」

「自分でわかるの?」

「慣れれば。人を見るときも、まず重さを見るといい。人は表情だけで立ってるわけじゃないから」

 蒼はその言葉を紙の端に小さく書いた。

 人は表情だけで立ってるわけじゃない。

「メモするほど?」

「忘れそうだから」

「変なの」

「いい言葉だと思った」

 透子は少しだけ黙った。

 自分が何気なく言った言葉を、誰かが大事そうに書き留める。そんな経験はあまりなかった。美術室では、透子の助言は便利なものとして扱われる。的確で、役に立つ。けれど、それは通り過ぎていく言葉だった。

 蒼は違った。

 彼は、透子の言葉を絵の中へ持っていこうとする。

 それが少しむずがゆく、少し嬉しかった。

 また別の日には、光の話をした。

 アトリエの窓から見える海は、時間によって色を変える。曇りの日は銀色に沈み、晴れ間が出ると急に白く眩しくなる。夕方には港の倉庫の影が長く伸び、堤防の先にある灯台の赤が濃くなる。

 蒼はその変化をよく見ていた。

 けれど、絵にすると光源が曖昧になることがあった。明るい部分を全部明るく描いてしまう。透子はそれを指摘した。

「光を描くときは、光そのものより影を見る」

「影?」

「光ってるところを全部白くすると、逆に光らない。どこが暗いか決めるから、明るいところが見える」

「魔法みたいだね」

「技法だよ」

「技法の方が魔法みたいなこともある」

 蒼は本気でそう言っているようだった。

 透子は少しだけ言葉に詰まった。

 彼にとって、魔法は特別で便利な奇跡ではない。扱いに困る力だ。だからこそ、当たり前の技術の方が不思議に見えるのかもしれない。

 透子は窓辺に立ち、港を指した。

「あの倉庫の壁、白く見えるけど、本当に白く塗ると浮く。周りとの関係で白く見えてるだけ。実際には、薄い灰色と青が入ってる」

「じゃあ、紙の白は残さない?」

「一番光ってるところだけ。全部残すと、ただ塗り忘れたみたいになる」

「難しい」

「難しいけど、慣れる」

「三崎さんは、そういうの全部見えてるんだ」

「全部じゃない。でも、見る癖がついてる」

「いいな」

 透子は蒼を見た。

「いい?」

「うん。僕はよく、気持ちの方に引っ張られるから」

 蒼は海を見ながら言った。

「形とか光とか、ちゃんとそこにあるものを見落とすことがある」

「私は逆」

「うん」

「そこにあるものばかり見て、気持ちを見落とす」

 言ってから、透子は少しだけ自分に驚いた。

 自然に言えた。

 数日前なら、そんなふうに言葉にはしなかった。自分の弱さを、蒼の前で少しずつ出すようになっている。それは親しくなったからというより、彼が先に自分の弱さを見せたからかもしれない。

 魔法が嫌だ。  魔具で描いた絵は自分の絵じゃない気がする。  自分の気持ちが勝手に絵に残るのが怖い。

 蒼がそう言ったから、透子も少しだけ言えた。

 アトリエの中で、ふたりは並んで窓の外を見ていた。

 海からの風が、机の上の紙を揺らす。水入れの水面に、窓枠が歪んで映っている。遠くの港で、誰かがロープを引く声が聞こえた。

 そのとき透子は、蒼の描きかけの絵に目を止めた。

 港の絵だった。

 以前より、ずっとよくなっている。倉庫の屋根の角度は直され、堤防の影も自然に奥行きを作っていた。空の灰色には、わずかに青が残っている。海とのつながりもある。透子が指摘したところを、蒼はきちんと直していた。

 そして、その絵の隅に、ほんの少しだけ光があった。

 画面の中央ではない。堤防の端に立つ小さな灯台のそば。赤い灯台の白い縁に、かすかな煌めきが滲んでいる。

 魔具は使っていないはずだった。

 蒼はこの絵を、ずっと普通の鉛筆と水彩で描いていた。古い筆と金属ケースは、木箱の中に閉じられたままだ。

 それでも、光っている。

 透子は無意識にその部分へ近づいた。

「ここ」

 蒼が振り返る。

「何?」

「光ってる」

 言った瞬間、蒼の表情が変わった。

 明らかに嫌そうな顔だった。

 子どもが苦い薬を口に入れられたような、露骨ではないが隠しきれない嫌悪。彼はすぐに絵を見た。透子が指した灯台のあたりをじっと見つめる。

「……どのくらい?」

「ほんの少し。強くはない。でも、ある」

「灯台?」

「うん。ここの白いところ。たぶん、見る人にはただ印象的に見えるだけだと思う。でも私には、少し揺れて見える」

 蒼は黙り込んだ。

 それから、机の上の布を取って、その部分を隠すように絵の前へ置いた。

「隠さなくても」

「見えない方がいい」

「どうして」

「嫌だから」

 透子は少し驚いた。

 これまでにも、蒼は魔法を好んでいないと話していた。だが、ここまで単純に「嫌」と言ったのは初めてだった。

「魔具を使ってないんでしょ」

「使ってない」

「なら、いいんじゃないの」

「よくない」

「どうして」

 蒼は答えなかった。

 透子は引かなかった。

「前にも言ってたよね。思い入れが強いと、魔具を使わなくても残ることがあるって。でも、今のは少しだけだし、絵としても悪いことじゃないと思う。むしろ、そこがあるから印象に残る」

「それが嫌なんだ」

 蒼の声は低かった。

 透子は黙った。

 蒼は布を見下ろしていた。隠された灯台の部分を、まるで見ないようにしている。

「僕は普通に描きたい。どこに線を引くかも、どこに色を置くかも、自分で決めたい。灯台を光らせたいなら、そう描けばいい。見せたいなら、構図や色で見せればいい」

「今も、そうした結果じゃないの」

「違う」

「何が違うの」

「僕が思っていたより、残った」

 蒼はそう言った。

「ただの灯台として描くつもりだったのに」

「でも、何か思い入れがあったんでしょ」

「……少し」

「なら、それが出ただけじゃない」

「出ただけ、で済ませたくない」

 透子には、すぐにはわからなかった。

 自分だったら、むしろ羨ましいと思うかもしれない。意図しなくても絵に心が残る。見る人の印象に残る。魔具を使わなくても、絵が少しだけ光る。

 それは、透子が喉から手が出るほど欲しかったものに近い。

 なのに蒼は、それを嫌がっている。

「自分の手で描いたって、言い切れなくなるから?」

 透子が尋ねると、蒼は少しだけ顔を上げた。

「うん」

「魔法が混ざったから?」

「うん」

「でも、魔法も湊くんの一部なんじゃないの」

 言ったあとで、透子は少し踏み込みすぎたかと思った。

 蒼はすぐには答えなかった。

 窓の外で、風が強くなった。カーテンが膨らみ、部屋の中に潮の匂いが広がる。机の上の紙が一枚、床に落ちた。透子が拾おうとすると、蒼が先に手を伸ばした。

 紙を拾った蒼の指先が、少しだけ震えていた。

「そう言われることはある」

 彼は言った。

「でも、そう思えない」

「どうして」

「魔法が出ると、僕が描いたというより、僕の中の勝手なものが描いた気がする」

「勝手なもの?」

「隠してる気持ちとか、思い出とか。自分でも整理できてないもの」

 蒼は拾った紙を机に戻した。

「それが絵に出ると、僕は自分の手を信用できなくなる。今の線は、本当に自分で引いたのか。今の色は、本当に自分で選んだのか。それとも、魔法が勝手に選んだのか」

 透子は、蒼の手を見た。

 細い指。鉛筆の跡。筆を持つ手。魔具を使ったときも、使わないときも、絵を描いているのはその手だった。

「三崎さんは、自分の絵に他人の技法が混ざってる気がするんでしょ」

 蒼が言った。

 透子は小さく頷いた。

「うん」

「僕は、それが魔法なんだと思う」

「……嫌な似方だね」

「うん」

 ふたりは少しだけ笑った。

 けれどその笑いはすぐに消えた。

 窓の外では、海が鈍く光っている。雲の切れ間が広がり、日差しが港の水面に細い道を作っていた。現実の光。誰にでも見える光。魔法ではない光。

 透子は、隠された灯台の部分を見た。

 布の下に、かすかな煌めきがある気がした。見えないのに、そこにあるとわかる。蒼はそれを嫌がっている。透子はそれを欲しがっている。

 同じものを前にして、ふたりは反対の方を向いている。

 それなのに、どこか同じ場所に立っているようでもあった。

「私は逆に」

 透子は言った。

 蒼がこちらを見る。

「どうやったら心が絵に入るのか知りたい」

 言葉にすると、それはとても単純だった。

 けれど、透子にとってはずっと言えなかったことだった。

 技術を知りたいのではない。賞を取る方法を知りたいのでもない。自分の絵を褒めてもらいたいわけでもない。

 自分が本当に見たもの。  感じたもの。  言葉にできなかったもの。

 それを、どうすれば紙の上に残せるのか。

「私は、絵を整えることはできる。人が見やすい形にすることもできる。でも、そこに自分の気持ちを入れるやり方がわからない。入れようとすると、すぐに嘘っぽくなる」

 蒼は黙って聞いていた。

「悲しそうに見える色を選ぶ。懐かしそうに見える構図にする。静かに見える余白を作る。そうやって、気持ちがあるように見せることはできる。でも、それは気持ちじゃない」

 透子は、机の上の水入れを見た。

 水面に窓の光が揺れている。

「湊くんは、勝手に入るのが嫌なんでしょ。私は、入れようとしても入らないのが嫌」

 蒼は少し考えるように、窓の外へ目を向けた。

 風が止み、カーテンがゆっくり元の位置へ戻る。

「それなら」

 蒼は言った。

「今度は、君が何かを思い出しながら描いてみればいい」

 透子は眉を寄せた。

「何かを?」

「うん。景色でも、人でも、物でもいい。見たままじゃなくて、思い出しながら」

「それで心が入るの?」

「わからない」

「わからないのに提案したの」

「僕も、わからないから一緒に考えるって言った」

 蒼は少し困ったように笑った。

「魔具を使うと、感情は入る。でも、それは三崎さんが知りたいこととは違う気がする。だから、魔具を使わないやり方を探すなら、まずは思い出すことからじゃないかなって」

「思い出す……」

 透子はその言葉を繰り返した。

 何を思い出せばいいのか、すぐには浮かばなかった。

 幼いころのこと。家族のこと。学校のこと。初めて絵を褒められた日のこと。賞を取った日のこと。展示室で見た海の絵。坂道。蒼の描いた石。赤い丸。おばあさんの肖像。

 思い出なら、いくらでもあるはずだった。

 けれど、それを描くとなると、急に遠くなる。

 透子は自分のスケッチブックを抱え直した。

「……難しそう」

「うん」

「湊くん、意外と無茶を言う」

「三崎さんに技法を教わるのも、僕にはけっこう無茶だよ」

「そう?」

「手の骨とか、重心とか、空の灰色に青を残すとか」

「普通だよ」

「その普通が難しい」

 透子は少しだけ笑った。

 窓の外の海は、さっきより明るくなっていた。

 部屋の中にはまだ、絵の具の匂いと潮風が残っている。机の上には、蒼の描きかけの港の絵。布の下に隠された、小さな灯台の光。透子の鞄の中には、まだ白いページの多いスケッチブック。

 技法と魔法。

 どちらも、まだうまく扱えない。

 けれど、ふたりはそれぞれ足りないものを抱えて、同じ窓の前に立っていた。

 透子はもう一度、蒼を見た。

「次は、私が描く番ってこと?」

「うん」

「何かを思い出しながら?」

「うん」

「見て笑わない?」

「笑わない」

「変な慰めも?」

「しない」

「褒めなくていい」

「いいと思ったら言う」

「そこは変わらないんだ」

「変えない」

 蒼は穏やかに言った。

 透子は小さく息を吐いた。

 戸惑いはあった。

 自分の気持ちを描く。  思い出しながら描く。

 それは、賞に出す絵よりも、先生に提出する課題よりも、ずっと難しいことのように思えた。

 それでも、逃げたいとは思わなかった。

 怖い。  でも、知りたい。

 どうやったら心が絵に入るのか。

 透子は窓の外の海を見た。光は水面の上で細く揺れ、やがて雲の影に飲まれて消えた。

 その光を、ただ綺麗だと思うより先に、どう描くかを考えてしまう自分がいる。

 でも今は、そのあとにもうひとつ、別の問いが残っていた。

 なぜ、それを描きたいと思うのか。

 答えはまだ出なかった。

 透子はスケッチブックを胸に抱えたまま、蒼の提案に小さく頷いた。


 思い出しながら描く。

 それは言葉にすると簡単だった。

 けれど、透子にとっては、白い紙の前に座るよりもずっと難しいことだった。

 翌日の放課後、透子はアトリエの机の前に座っていた。窓の外には、雲の厚い海が広がっている。雨は降っていないが、空は湿っていて、水平線はぼんやりと霞んでいた。港の倉庫の屋根には、昨日までの雨がまだ残っているのか、ところどころ鈍く光っている。

 机の上には、透子のスケッチブックが開かれていた。

 新しいページ。  白い紙。  鉛筆。  消しゴム。  水彩絵の具。

 普段と変わらない道具のはずなのに、今日は少しだけ重く見えた。

 蒼は窓際の椅子に座っている。自分のスケッチブックは開いていない。ただ、透子の手元を見ていた。見張っているわけではない。急かすわけでもない。彼は、透子が描き始めるのを待っている。

 その沈黙が、少し居心地悪かった。

「何を描けばいいと思う?」

 透子が聞くと、蒼は首を傾げた。

「僕が決めることじゃないと思う」

「そういう返事が一番困る」

「じゃあ、思い出しやすいもの」

「たとえば?」

「小さいころのこととか」

 小さいころ。

 透子は鉛筆を持ったまま、紙を見下ろした。

 幼いころの記憶なら、いくつかある。

 母と行った公園。  雨の日に描いたクレヨンの絵。  初めて学校の図工で褒められた日。  夏祭りの金魚すくい。  祖母の家の縁側。  小さな手に持った十二色の色鉛筆。

 思い出せないわけではない。

 むしろ、絵にしやすいものはいくつもある。

 透子は最初に、公園を描こうとした。

 幼稚園のころ、母とよく行った公園。滑り台の色は、たしか赤だった。ブランコの支柱は青。砂場の隅に、誰かが忘れた黄色いバケツがあった。雨上がりの日、砂場の砂が黒く湿っていて、透子はそこで泥のケーキを作った。

 記憶としては、悪くない。

 鉛筆を動かす。

 紙の上に、滑り台の輪郭が現れる。右側にブランコ。手前に砂場。奥に母の後ろ姿を小さく置く。視線は砂場のバケツから、滑り台を通って、母へ抜ける構図にする。幼いころの記憶だから、少し低い視点にする。遊具を実物より大きく描けば、子どもの目線が出る。

 そこまで考えた瞬間、透子は手を止めた。

 違う。

 これは、思い出を描いているのではない。

 思い出らしい絵を組み立てているだけだ。

 蒼は何も言わなかった。

 透子は消しゴムを手に取り、滑り台の線を消した。紙の表面が薄く汚れる。幼い記憶は、白い粉のような消し跡になって残った。

「駄目」

 透子は言った。

「どうして?」

「構図を考えた」

「考えたら駄目なの?」

「駄目じゃないけど、今は違う気がする」

 蒼は頷いた。

「じゃあ、別のもの」

 透子は次に、家族を描こうとした。

 夕食の食卓。

 母が味噌汁をよそう手。父が帰りの遅い日は、ふたりだけの食卓になる。魚の焼けた匂い。テレビの天気予報。皿に並んだかぼちゃの煮物。賞を取った日に少しだけ増える小鉢。

 それなら、自分の近くにある記憶だ。

 透子は、机に向かう母の手を描き始めた。

 手は描ける。指の形、関節、皺、箸を持つ角度、椀を支える親指。母の手は、細くはない。爪は短く、指先は少し荒れている。家事をする手だ。鉛筆の線は迷わず進んだ。

 悪くない。

 透子はすぐにそう思った。

 手の形は取れている。構図もいい。画面の中央に味噌汁の椀を置き、手を少し斜めに入れる。湯気を淡く描けば、家庭の温かさが出る。背景にテレビの青い光を少しだけ入れれば、夜の食卓になる。

 そこまで浮かんで、また嫌になった。

 家庭の温かさ。  夜の食卓。  母の手。

 いかにもだ。

 そう見えるように描いているだけだ。

 透子は鉛筆を置いた。

 消すのも面倒だった。ページの隅に描かれた母の手は、うまく描けている。うまく描けているから、余計に空々しい。

 蒼は椅子の上で膝に手を置き、ただ見ていた。

「何か言えば」

 透子が言うと、蒼は少し考えた。

「手、うまいね」

「それは言わなくていい」

「でも、うまい」

「それが嫌なの」

「うん」

 蒼はそこで黙った。

 透子はため息をつき、ページをめくった。

 次は学校を描いた。

 美術室の窓辺。  棚に並ぶ石膏像。  使い古した筆洗い。  乾きかけの水彩紙。  窓の外の紫陽花。

 これは何度も描いている。だからこそ、すぐに形になる。石膏像の白さは、窓から入る曇り空の光で少し青く見える。筆洗いの水は濁っている。棚の影は深い。紙の上の白を残せば、静かな美術室の空気が出る。

 透子は描きながら、自分の手が勝手に正解へ向かうのを感じた。

 ここはこう描けばいい。  ここは省略する。  ここはぼかす。  ここは輪郭を強く取る。

 技術が先に動く。

 記憶や感情よりも早く、手が絵を整えてしまう。

 透子は鉛筆を強く握った。

 紙に少し濃い線が入る。

 その線だけが、妙に汚く見えた。

「……何を描いても同じ」

 声が、思ったよりも低くなった。

 蒼は窓際で姿勢を変えた。

 透子はスケッチブックを見下ろしたまま続けた。

「公園を描いても、母の手を描いても、美術室を描いても、すぐに絵としてどう見えるかを考えてる。どうすれば伝わるか。どうすれば上手く見えるか。どうすれば、それっぽくなるか」

 紙の上には、描きかけの美術室がある。

 整った線。  見やすい構図。  静かな光。

 また、同じだ。

「結局、私はそういうふうにしか描けない」

 透子は鉛筆を置いた。

「心を込めるとか、思い出しながら描くとか、たぶん無理なんだと思う。私の絵には、やっぱり――」

 心がない。

 そう言いかけた。

 その前に、蒼が静かに言った。

「心がないわけじゃないと思う」

 透子は顔を上げた。

 蒼は、まっすぐこちらを見ていた。

「じゃあ何」

「入れるのを怖がってる」

 部屋の空気が、少し冷えた気がした。

 透子は蒼を見たまま、しばらく黙った。

「怖がってる?」

「うん」

「私が?」

「たぶん」

 蒼の声は穏やかだった。けれど、それが余計に透子の胸を刺した。攻撃するつもりがないからこそ、逃げ場がない。

「どうしてそう思うの」

「描き始めると、すぐに整えようとするから」

「絵を整えるのは悪いことじゃない」

「悪くない」

「じゃあ何」

「整えるのが、早すぎる」

 透子は息を止めた。

 蒼は、言葉を選ぶように続けた。

「何かが出てくる前に、形にしてしまってる気がする。迷う前に構図にして、揺れる前に色にして、痛くなる前にきれいにしてる」

「……何それ」

「見ていて、そう思っただけ」

「私の絵に心があるかどうかなんて、湊くんにわかるの?」

 声が鋭くなった。

 蒼は少しだけ眉を下げた。

「全部はわからない」

「なら、怖がってるとか言わないで」

「ごめん」

 すぐに謝られたことで、透子の苛立ちは行き場を失った。

 蒼は反論しなかった。言い返しもしなかった。けれど、言ったことを撤回したわけでもなかった。

 それがわかったから、透子は余計に苦しくなった。

「怖がってるんじゃない」

 透子は言った。

「入れるものがないだけ」

 蒼は黙っている。

「人に見せられるような気持ちがない。描きたいものもない。だから、技法で形にしてるだけ。そうすれば少なくとも、絵にはなるから」

「それは、気持ちがないこととは違うと思う」

「どう違うの」

「わからない。でも、ない人は、そこまで苦しそうに描かない」

 その言葉に、透子は返せなかった。

 苦しそう。

 自分がどんな顔で描いていたのか、透子にはわからない。けれど、蒼の目にはそう見えたらしい。

 透子は視線を落とした。

 開かれたページには、美術室が途中まで描かれている。棚の石膏像。窓辺の光。筆洗い。乾きかけの紙。うまい。やはり、うまく描けている。

 それが嫌だった。

「湊くんはいいよね」

 言った瞬間、自分でもひどいと思った。

 でも、止まらなかった。

「勝手に絵に心が入るんだから」

 蒼の表情がわずかに変わった。

 透子は続けてしまう。

「嫌だって言うけど、私から見たら羨ましいよ。魔具を使わなくても光ることがある。見た人に何か残せる。私がどれだけ描いても入らないものが、勝手に入るんでしょ」

 蒼は何も言わなかった。

 その沈黙が、透子の言葉をさらに鋭くしてしまう。

「それを嫌だって言えるのは、持ってる人だからだよ」

 言い終えたあと、部屋が静かになった。

 海からの風が、窓辺のカーテンを揺らす。机の上の水入れの表面が小さく震えた。遠くで、船のエンジン音が低く鳴っている。

 蒼はしばらく透子を見ていた。

 怒るかと思った。  反論されるかと思った。  そんな簡単なものじゃない、と言われるかと思った。

 けれど蒼は、ただ視線を落とした。

「そうかもしれない」

 透子は黙った。

「持ってるから、嫌だって言えるのかもしれない」

 蒼の声は、責めるものではなかった。

 だから、透子の胸の中にあった棘が、少しだけ自分の方へ向いた。

「でも、僕はやっぱり怖い」

 蒼は、机の端に置かれた木箱を見た。

 その中には、魔法の筆と絵の具が入っている。今は閉じられていて、中身は見えない。

「魔法が混ざると、自分で描いたって言い切れなくなる。誰かに見せたくないものまで、絵に出る。見る人が、僕が渡すつもりのなかったものまで受け取ってしまうかもしれない」

 透子は、何も言えなかった。

「だから、三崎さんに偉そうなことは言えない」

 蒼は小さく笑った。

 その笑いは、少しだけ寂しかった。

「心を絵に入れるのを怖がってるって言ったけど、僕も同じだと思う。僕は、入ってしまうのが怖い。三崎さんは、入れる前に整えてしまう。それだけかもしれない」

 透子はスケッチブックを閉じた。

 音は小さかったが、部屋の静けさの中ではよく響いた。

「ごめん」

 透子は言った。

 蒼が顔を上げる。

「さっきの、羨ましいって言ったの」

「本当のことなら、謝らなくていいよ」

「本当だけど、言い方が悪かった」

「うん」

「そこは否定しないんだ」

「悪かったとは思う」

 透子は少しだけ笑った。

 苦笑に近かった。

 蒼も少しだけ笑った。

 喧嘩にはならなかった。

 けれど、何もなかったことにもならなかった。

 ふたりの間に初めてできた小さなぶつかり合いは、壊れるほど大きくはなく、かといって無視できるほど軽くもなかった。互いの痛いところに触れてしまった感触だけが、部屋の中に残っている。

 透子はスケッチブックの表紙に指を置いた。

「今日は、描けないかも」

「うん」

「逃げてる?」

「たぶん」

「正直だね」

「慰めないって言ったから」

「そうだった」

 透子は小さく息を吐いた。

 そのとき、階段の方から足音が聞こえた。

 ゆっくりとした足音だった。外階段を、一段ずつ確かめるように上がってくる音。蒼が窓の方から扉へ視線を移す。透子もつられて振り返った。

 扉の外で、軽くノックの音がした。

「蒼くん、いる?」

 女性の声だった。

 佳乃ではない。もっと年配の、やわらかく少しかすれた声。

 蒼が立ち上がり、扉を開けた。

 そこに立っていたのは、老婦人だった。

 薄い藤色のカーディガンを着て、片手に黒い傘を持っている。雨は降っていないが、たぶん杖代わりにもしているのだろう。髪はきれいにまとめられていて、顔には細かな皺がある。目元は穏やかだが、どこか疲れて見えた。

「ああ、よかった。今日はここにいたのね」

「相馬さん」

 蒼の声が少し柔らかくなった。

 知り合いらしい。

 老婦人は透子に気づくと、少し驚いたように目を細めた。

「お客さんがいたのね。ごめんなさい」

「大丈夫です」

 透子は立ち上がり、会釈した。

「三崎透子です」

「相馬千枝です。蒼くんには、ときどき絵を見せてもらっているの」

 千枝はそう言って、ゆっくり部屋の中へ入った。

 蒼は椅子を引いた。

「座りますか」

「ありがとう。少しだけ」

 千枝は椅子に腰を下ろす。傘を壁に立てかけ、小さな布のバッグを膝の上に置いた。その動作の一つ一つが丁寧だった。急ぐことに慣れていないのではなく、急がないようにしている人の動きに見えた。

 透子は、机のそばに立ったまま、千枝を見ていた。

 この人を描くなら、どこを描くだろう。

 そう考えかけて、やめた。

 いまは、そういう目で見るべきではない気がした。

「今日はどうしました?」

 蒼が尋ねた。

 千枝は膝の上のバッグを少し撫でた。

「お願いがあって来たの」

 その声は、静かだった。けれど、言葉の前に長い時間を置いてきたような重みがあった。

 蒼の表情が少し変わる。

「絵ですか」

「ええ」

 千枝はバッグから一枚の写真を取り出した。

 古い写真だった。端が少し擦れていて、色も褪せている。そこには、若いころの男性が写っていた。港を背景に、照れたように笑っている。短く刈った髪、少し角張った顎、白いシャツ。隣には若い女性が立っている。おそらく、千枝だ。

 千枝は写真を机の上に置いた。

「夫なの。もう、亡くなって十年になる」

 蒼は何も言わず、写真を見た。

 透子も横から見つめる。

 写真の中の男性は、確かに笑っていた。けれど、どこかぎこちない。写真を撮られることに慣れていない人の笑い方だ。肩に力が入り、視線がカメラから少し逸れている。隣の若い千枝の方が、よほど自然に笑っていた。

「写真は、あるの」

 千枝は言った。

「何枚もあるわ。若いころのものも、年を取ってからのものも。家族で撮った写真も、旅行の写真も」

 指先が、写真の端をそっと撫でる。

「でも、写真を見ても、最近はよくわからなくなるの」

 透子は、千枝の横顔を見た。

 老婦人の目は、写真を見ているようで、もっと遠くを見ていた。

「顔はわかるのよ。もちろん。これはあの人だって、ちゃんとわかる。でも、私が思い出したいのは、この顔そのものじゃないの」

 蒼は黙って聞いている。

 千枝は少しだけ笑った。

「笑う前に、少しだけ眉を下げる癖があったの。照れると、すぐ海の方を見るの。褒められるのが苦手でね。『そんなことない』って言いながら、耳だけ赤くなる」

 その声に、かすかな温かさが混ざった。

「煙草を持つ指が、少し曲がっていたわ。若いころ、港で怪我をしたから。字を書くときも、箸を持つときも、その指だけ少し不器用で。でも、網を直すのは誰より上手だった」

 透子の頭の中に、写真の男性とは別の姿が浮かんだ。

 年を取った男の人。  海を見ている横顔。  煙草を持つ少し曲がった指。  照れると目を逸らす癖。

 千枝の言葉は、写真には写っていないものを少しずつ部屋の中へ運んできた。

「病院にいた最後のころもね、海が見える部屋がいいって言ったの。見えるっていっても、ビルの隙間から少しだけだったのに。それでも、あの人は毎日見てた。海は変わらないなって」

 千枝はそこで、少し言葉を切った。

 窓の外の海から、白い光が反射して部屋に入った。写真の表面が一瞬だけ光る。

「私は、そのときの顔を忘れたくないの」

 声が、ほんの少し震えた。

「写真の中の顔じゃなくて。私が覚えている、あの人の顔を」

 蒼はゆっくり息を吸った。

 透子にはわかった。

 蒼が迷っている。

 彼の視線は写真に向いているが、実際にはもっと別のものを見ている。千枝の言葉、記憶、そこに宿る重さ。魔具のこと。人の心に触れること。

 千枝は蒼を見た。

「蒼くんに、描いてもらえないかしら」

 部屋が静かになった。

「写真を写すんじゃなくてね」

 千枝は続けた。

「私が覚えている夫を、描いてほしいの」

 蒼の指が、机の端に触れた。

 そのすぐ近くには、木箱がある。閉じられた木箱。魔法の筆と、魔法の絵の具が入っている箱。

 透子は無意識にその箱を見た。

 千枝の望む絵は、普通の肖像画とは違う。

 写真のような正確な絵ではない。技術だけで描けるものでもない。彼女の記憶の中にいる夫。照れ方、指の癖、海を見る横顔、最後の病室での表情。

 それは、蒼の魔具がもっとも力を持つ領域のように思えた。

 だからこそ、蒼は迷っている。

「相馬さん」

 蒼は静かに言った。

「僕は、その人を知りません」

「ええ」

「写真を見て、似せることはできるかもしれない。でも、相馬さんが覚えている人を、そのまま描けるわけじゃない」

「わかっているわ」

「たぶん、期待とは違うものになります」

 千枝は小さく頷いた。

「それでも、お願いしたいの」

 蒼は黙った。

 透子は、胸の奥が少し痛くなるのを感じていた。

 千枝の言葉は、静かだった。泣き崩れるわけでも、強く頼み込むわけでもない。けれど、長い時間ひとりで抱えてきたものを、そっと差し出すような切実さがあった。

 描いてあげてほしい。

 透子はそう思った。

 同時に、そんな簡単に言っていいことではないとも思った。

 蒼は、魔法が混ざることを恐れている。魔具で描いた絵は自分の絵ではないと言っていた。人の心に触れるのは危ないとも言っていた。

 千枝の依頼は、まさに人の心の深い場所に触れるものだ。

 蒼は一度、木箱から目を逸らした。

「すみません」

 彼は言った。

「僕には――」

 断ろうとしている。

 透子はそう感じた。

 その瞬間、千枝の指が写真の上で止まった。

 写真の中の男性は、照れたように笑っている。若い千枝が隣で笑っている。そこに写っているのは、たしかに過去だった。けれど、千枝が欲しがっているのは写真の過去ではない。

 忘れかけているものを、もう一度見たいのだ。

 透子は、思わず口を開いた。

「描いてみてもいいんじゃない」

 蒼がこちらを見た。

 透子自身も、自分の声に驚いていた。

 けれど言葉はもう部屋の中に落ちている。

 千枝も、ゆっくり透子を見た。

 透子は一度、写真を見て、それから蒼へ視線を戻した。

「写真みたいに正しく描くんじゃなくて。相馬さんの話を聞いて、覚えているものを拾って……そういう絵なら、湊くんは描けるんじゃない」

 蒼は答えなかった。

 窓の外で、海が白く揺れた。

 机の上の木箱は閉じられたまま、静かにそこにあった。