『アトリエ ~海の見えるアトリエ~』

第三章 魔法の筆、魔法の絵の具

 魔法なんだ、と蒼は言った。

 その言葉は、雨上がりの広場にあまりにも静かに落ちた。

 派手な音はしなかった。空が割れることも、風が巻き起こることも、光が溢れることもなかった。ただ、湿った石畳の上に、小さな水たまりがあり、喫茶店のドアベルがかすかに鳴り、商店街の方から揚げ物の匂いが流れてくる。

 そこは、どこから見ても普通の街だった。

 海辺の、古くて、少し寂れた商店街の端。雨のあとで空気が重く、雲の向こうに夏の光が滲んでいるだけの場所。

 なのに、目の前のスケッチブックには、赤い丸と、青い三角と、黄色がかった四角が描かれていた。

 ただそれだけの図形が、透子の胸の中を静かに乱している。

 赤い丸を見ると、懐かしさがある。  青い三角を見ると、焦りが刺さる。  四角を見ると、諦めに似た沈黙が広がる。

 透子は、しばらく何も言えなかった。

 言うべき言葉は、いくつも思いついていた。

 そんなものはあり得ない。  何か仕掛けがある。  特殊な顔料を使っている。  見る人の心理を誘導している。  色彩や形態が与える印象を、魔法などと言い換えているだけ。

 どれも、自分が言いそうな言葉だった。

 なのに、どれも口に出す前に弱くなった。

 紙の上の三つの図形が、それらの言葉を許さないように、静かにそこにあった。

「……手品?」

 ようやく出た声は、自分でも頼りなく聞こえた。

 蒼は笑わなかった。

「手品ではないよ」

「じゃあ、特殊な絵の具」

「普通の店では売ってない」

「なら、やっぱり特殊な画材じゃない」

「そうとも言える」

 蒼はあっさり認めた。

 透子は眉を寄せた。

「じゃあ魔法じゃない」

「特殊な画材、という言い方で済ませたいなら、それでもいいよ」

「そういう言い方、ずるい」

「うん」

 蒼は少し困ったように、手元の筆を見た。

 その筆は、先ほどまで図形を描いていたものだ。濡れた筆先に、赤と青と黄色がわずかに残っている。光の加減で、黒い毛先の中に青い色がひと筋混じって見えた。

 透子は、その筆から目を離せなかった。

 ただの道具のはずだった。木の軸と、毛の束と、水と絵の具。絵を描くためのもの。美術室にも似たような筆は山ほどある。値段の高いものも、安いものも、使い込まれて毛先が割れたものも。

 けれど、この筆には違和感があった。

 道具なのに、見られている気がする。

 そう思ってしまうこと自体が、透子には不快だった。

 自分の感覚が、信用できなくなっている。

「心理誘導は?」

 透子は言った。

「さっきから、私がそう感じるように言葉を選んでるとか。石の絵のときも、描く前に何かしてたとか」

「石の絵のとき、僕は何も説明してない」

「でも、表情とか、間とか、そういうもので誘導することはできる」

「できるかもしれない」

「今の図形だって、赤い丸は懐かしく見えやすいし、青い三角は緊張感がある。四角は安定してる。色と形の印象を強めただけなら、魔法じゃない」

 蒼は静かに聞いていた。

 透子は自分の言葉を重ねながら、どこかで自分自身を説得しようとしていた。これは説明できる現象だ。未知のものではない。美術の範囲、心理学の範囲、技法の範囲。少なくとも、魔法という言葉を持ち出す必要はない。

 そう思いたかった。

 だが、赤い丸の懐かしさは、まだ胸に残っている。

 それは色彩の印象というには、あまりにも具体的な温度を持っていた。透子の知らない記憶の蓋を、指先で少しだけ持ち上げるような感覚だった。

 青い三角の焦りも、ただ尖った形を見た不快感ではない。もっと内側に近い。誰かに呼ばれているのに、聞こえないふりをしているときのような、落ち着かなさ。

 四角の諦めは、静かだった。  静かすぎて、怖かった。

 透子はスケッチブックから顔を上げた。

「何か、混ぜた?」

「絵の具に?」

「うん」

「何かって?」

「香料とか、薬品とか」

 言ってから、自分でも少し馬鹿げていると思った。

 蒼はそれでも真面目に首を横に振った。

「何も。匂いもしないでしょ」

 透子は息を吸った。

 潮の匂い。雨上がりの石畳の匂い。喫茶店から漏れるコーヒーの匂い。蒼の木箱からする、古い木と水彩絵の具の匂い。

 不審な匂いはない。

「じゃあ、見る角度で変わる顔料?」

「そういうものでもない」

「じゃあ、どういうものなの」

 声が少し尖った。

 蒼は怒らなかった。

 ただ、スケッチブックを閉じた。赤い丸も、青い三角も、黄色がかった四角も、表紙の下に隠れる。途端に、胸の中に残っていた感情が少し遠のいた気がした。

 完全には消えない。

 でも、息はしやすくなった。

「三崎さんは、絵に光が見えるんだよね」

 蒼は言った。

 透子は黙った。

 それは自分が口にしたことだった。おばあさんの絵が光っている。子どもの似顔絵にも、少し光があった。石の絵にも、図形にも。

 言ったのは自分だ。

 それでも、改めて他人の口から聞くと、ひどく頼りない話に聞こえた。

「光っていうか……そう見えるだけかもしれない」

「どんなふうに?」

「絵の具の奥が、少し揺れるみたいに。水面みたいだったり、細い線みたいだったり。全部が同じじゃない」

「おばあさんの絵は?」

 透子は、布で隠された絵の方を見た。

 蒼が先ほど戻した布の下で、肖像はほとんど見えなくなっている。けれど一部だけ、背景の深い青緑が覗いていた。光は、布越しでもかすかに感じられる。

「あれは、もっと強い。輪郭の周りに滲んでる。金色っぽいけど、黄色とは違う。眩しいのに、うるさくない」

 蒼は目を伏せた。

 透子は続ける。

「昨日見た海の絵は、もっと薄かった。海の白いところだけじゃなくて、画面の奥に残ってる感じ。さっきの子どもの絵は、一瞬だけ。完成したときに、紙の表面が水みたいに光った」

「……やっぱり、見えてるんだ」

 蒼の声は小さかった。

 その響きに、透子は引っかかった。

「やっぱり?」

「ああ、いや」

「どういう意味」

 蒼は困ったように笑った。

 またごまかすつもりだ、と透子は思った。

 けれど、その笑みは軽いものではなかった。何をどこまで言うべきか、迷っている顔だった。

「普通は、見えない」

 蒼は言った。

「何が」

「その光」

「……普通は?」

「うん。普通の人は、絵を見て何か感じることはある。懐かしいとか、悲しいとか、好きだとか、落ち着かないとか。でも、光として見えるわけじゃない」

 透子は黙った。

 広場の石畳に、雲の切れ間から少しだけ光が落ちた。水たまりの端が白く光り、すぐにまた曇る。

「見える人もいるの?」

「いる。少ないけど」

「それが、何」

 蒼は少しだけ間を置いた。

「魔法を感じ取れる人」

 透子は、すぐには返事をしなかった。

 その言葉は、蒼の「魔法だよ」という言葉よりも、少しだけ現実味を帯びて聞こえた。なぜなら、透子自身がその光を見てしまっているからだ。

 信じたわけではない。

 けれど、完全に否定するには、自分の目が邪魔だった。

「私は、魔法使いじゃない」

「そうだと思う」

「使えない」

「うん」

「じゃあ、感じ取れるって何」

「見えるとか、聞こえるとか、そういうのに近い。音楽を聴いて、普通の人より細かく音がわかる人がいるでしょ。色の違いに敏感な人もいる。たぶん、それに近い」

「たぶん?」

「僕も、全部を説明できるわけじゃない」

 蒼は、自分の手元の筆を木箱に置いた。

 置くときの動作が、妙に慎重だった。

「魔法って言っても、何でもできるわけじゃない。僕ができるのは、こういう道具を使って、絵に少しだけ何かを残すことくらい」

「何かって」

「気持ちとか、記憶とか、そういうもの」

 透子は思わず笑いそうになった。

 気持ち。記憶。

 それを絵に残す。

 そんなことは、絵を描く人間なら誰でも言う。誰かの思いを込めた絵。記憶を描いた絵。感情を色で表した絵。美術の講評にも、展覧会のキャプションにも、そういう言葉は溢れている。

 けれど蒼が言っているのは、たぶん比喩ではない。

 赤い丸に残っていた懐かしさ。  石の絵にあった、理由のつかない悲しさ。  おばあさんの肖像の、胸が詰まるような存在感。

 それらを思い出すと、比喩では済まなくなる。

「それを、魔法って呼んでるの」

「うん」

「誰が」

 蒼は少しだけ視線を遠くへ向けた。

 広場の先、建物の隙間から海が見える。灰色の水面に、弱い光がひと筋落ちていた。

「僕のいたところでは」

 透子は、その言葉を聞き逃さなかった。

「いたところ?」

 蒼は口を閉じた。

 透子は一歩も引かなかった。

「この街じゃないってこと?」

「うん」

「県外?」

「違う」

「国外?」

「そういう意味でもない」

 透子は眉を寄せた。

「どういう意味」

「……こことは違う場所」

「曖昧すぎる」

「曖昧に言ってる」

「どうして」

「詳しく言っても、今は信じないと思うから」

 それは正しかった。

 透子は返す言葉を失った。

 魔法と言われただけでも頭が追いついていない。さらに、こことは違う場所から来た、などと言われても、受け止めきれるはずがなかった。

 それでも、透子は聞かずにはいられなかった。

「本当に、人間?」

 口にしたあと、さすがに失礼だったと思った。

 蒼は一瞬きょとんとし、それから少し笑った。

「人間だよ。たぶん、君と同じくらいには」

「たぶんって何」

「そこは、あまり考えたことなかった」

 透子はため息をついた。

 会話が冗談のように流れているのに、冗談ではない。蒼の態度があまりにも落ち着いているせいで、こちらだけが取り乱しているように感じる。

 それが少し腹立たしかった。

「どうして隠してるの」

「魔法のこと?」

「うん。そんなものがあるなら、どうして誰も知らないの」

「知らない方がいいから」

 蒼の答えは、思ったよりも早かった。

 透子は蒼を見る。

 彼の表情は穏やかだったが、その言葉だけは少し硬かった。

「魔法は便利なものじゃないよ」

「でも、絵で人の心を動かせるんでしょう」

「それは、便利とは違う」

「同じじゃないの」

「違う」

 蒼は、初めてはっきり否定した。

 その強さに、透子は少し黙った。

 蒼は視線を落とし、木箱の中の金属ケースを指先で閉じた。小さな音がした。かちり、と乾いた音。

「人の心に触るのは、便利なことじゃない。たぶん、危ないことだと思う」

「危ない?」

「描いた人も、見た人も、変わることがある」

「変わるって」

「忘れていたことを思い出したり、思い出さなくていいことを思い出したり。誰かの気持ちに引っ張られたり。絵を見ただけなのに、そこから離れられなくなったり」

 透子は、赤い丸を思い出した。

 懐かしさ。

 どこにも属さない記憶のような感覚。もしあれがもっと強く、もっと深く入り込んできたら、自分はどうなっていただろう。

 少し、ぞっとした。

「だから隠すの?」

「それもある。あと、見えない人には本当に見えないから。説明しても、嘘か、病気か、詐欺だと思われる」

「まあ、思うね」

「うん」

 蒼は素直に頷いた。

「だから、本当は言わない。見せない。使わない」

「でも、今は見せた」

「三崎さんが、光が見えるって言ったから」

「それだけで?」

「それだけじゃない」

 蒼は、透子の目を見た。

「石の絵の悲しさもわかった」

 透子は言葉を詰まらせた。

「あれは、技法で説明できる部分もあった」

「うん。でも、それ以外の部分を感じた」

「……感じただけかもしれない」

「それが大事なんだと思う」

 蒼の声は静かだった。

 自信に満ちているわけではない。むしろ、彼自身も完全にはわかっていないことを、手探りで言葉にしているようだった。

「魔法って、たぶん、感じ取れる人とそうじゃない人がいる。感じ取れる人には、必要なところまで話していいことになってる」

「誰が決めたの」

「僕がいたところの人たち」

「その、違う場所?」

「うん」

「そこから来たの」

 蒼は少し迷ってから、頷いた。

「数年前に」

「どうやって」

「今は、それはまだ話せない」

「まだ?」

「うん。たぶん、急に全部話すと、君は余計に信じられなくなる」

 透子は否定できなかった。

 信じていない。

 けれど、信じていないと言い切ることもできない。

 それが今の状態だった。

 蒼は、無理に説明を続けなかった。木箱を閉じ、スケッチブックを膝の上に戻す。その所作には、見せるべきものは見せた、という静かな区切りがあった。

 透子はそれが少し不満だった。

 こんなものを見せておいて、ここで終わるのか。

 そう思った。

 でも同時に、これ以上聞いても、自分の中で何かが壊れそうな気もした。

「信じなくてもいいよ」

 蒼は言った。

 透子は顔を上げた。

「どういう意味」

「そのまま。信じなくていい。特殊な絵の具だと思ってもいいし、変な手品だと思ってもいい。たぶん、その方が楽だと思う」

「楽?」

「うん。魔法があるって思うよりは」

 その言い方に、透子は違和感を覚えた。

 魔法。

 子どものころなら、その言葉にはもっと明るい響きがあったはずだ。何でもできる力。秘密の世界。願いを叶えるもの。絵本やアニメの中にある、憧れに近いもの。

 だが蒼の言う魔法には、そういう浮き立つような明るさがなかった。

 むしろ、持て余しているものを仕方なく呼ぶ名前のようだった。

「湊くんは、魔法が嫌いなの」

 透子がそう聞くと、蒼は少し驚いた顔をした。

「どうして?」

「誇らしそうじゃないから」

「魔法を?」

「うん。普通、そんなものが使えたら、もっと得意げになりそう」

「三崎さんなら?」

「私は……」

 透子は答えに詰まった。

 魔法が使えたら。

 絵に感情を込められる道具があったら。人の心を動かせる力があったら。

 ほしい。

 そう思うのが自然なはずだった。

 けれど、さっき赤い丸や石の絵を見たあとでは、簡単にほしいとは言えなかった。あれは力だ。しかも、絵を通して人の内側へ入ってくる力。美しいだけではない。少し怖い。

「わからない」

 透子は正直に言った。

 蒼は、少しだけ安心したように見えた。

「僕も、よくわからない」

「自分の力なのに?」

「自分の力だから、余計に」

 透子はその言葉を覚えた。

 自分の力だから、余計にわからない。

 少しだけ、わかる気がした。

 透子も、自分の見る力をうまく扱えない。人の絵を見れば、意図が読める。線の迷いも、色の選択も、どこを見せたかったのかもわかる。だから絵は上手くなる。賞も取れる。

 けれど、その力のせいで、自分の絵が空っぽであることまで見えてしまう。

 持っているものが、必ずしも救いになるとは限らない。

 透子は、閉じられたスケッチブックを見た。

「じゃあ、あの絵も」

「あの絵?」

「おばあさんの絵。あれも魔法なの」

 蒼は答えなかった。

 沈黙が、それに近い答えだった。

「さっきの子どもの絵も?」

「少しだけ」

「魔法の筆と絵の具を使ったの?」

「子どもの絵には使ってない」

 透子は目を細めた。

「使ってないのに、光ってた」

「そういうこともある」

「どういうこと」

「……思い入れが混ざると、残ることがある」

 蒼は、それ以上言いたくなさそうだった。

 透子は、先ほどの親子連れの絵を思い出した。

 あれは初対面の親子だったはずだ。けれど蒼は、子どもの足の揺れや、船を待つ時間を絵に残した。思い入れ、というほど深い関係ではない。それでも、描いている瞬間、そこに心を寄せていたのだろう。

 だから、少しだけ光った。

 もしそうなら。

 透子の中に、また別の問いが生まれた。

 では、自分の絵が光らないのは、なぜなのか。

 答えは、考えるまでもなかった。

 心を寄せていないからだ。

 評価される構図。  整った色。  正しい技法。  誰かが褒めやすい余韻。

 自分の受賞作には、それらはあった。

 でも、心を寄せてはいなかった。

 透子は胸の奥が沈むのを感じた。

 魔法だと言われた瞬間、どこかで少しだけ期待していたのかもしれない。人の心を動かす絵には、何か技法がある。自分の知らない描き方がある。蒼の絵を見れば、それを学べるかもしれない。

 けれど、蒼の答えは魔法だった。

 魔法。

 自分には使えないもの。

 自分が欲しかった絵の理由が、自分の努力とは別の場所にあるのだとしたら。

 それは、あまりにも残酷だった。

 透子は小さく息を吐いた。

「……なんだ」

 声が、思ったよりも低く出た。

 蒼がこちらを見る。

「何?」

「魔法なら、仕方ない」

 口にした瞬間、自分でもその言葉が冷たいと思った。

 だが止められなかった。

「技法じゃないなら、私には真似できない。描き方じゃないなら、知っても意味がない」

 蒼は黙った。

 透子は、自分が勝手に落胆していることをわかっていた。

 蒼は何も悪くない。彼は最初から、描き方ではないと言っていた。魔法だと言っていた。それを信じたくなかったのは透子の方だ。

 それでも、胸の中には重いものが残った。

 あの光の理由を知りたかった。

 昨日からずっと、それだけを追いかけていた。

 そしてたどり着いた答えが、自分の手の届かないものだった。

 透子は笑おうとしたが、うまくいかなかった。

「ごめん。変なこと言った」

「変じゃないよ」

「変だよ。初対面の人に、絵が光ってるとか、魔法じゃないとか、勝手に問い詰めて」

「僕も、初対面の人に魔法って言った」

「それはそう」

 蒼が少し笑った。

 その笑いに、透子の胸の強張りがわずかに緩む。

 彼は、本当に無理に信じさせようとしない。魔法を見せておきながら、信じろとも言わない。質問に答えるが、必要以上に踏み込ませない。誇ることも、脅すこともない。

 それがかえって、透子には不思議だった。

「秘密なんでしょ」

 透子は言った。

「魔法のこと」

「うん」

「私に話してよかったの」

「見えてるなら、話してもいい」

「誰にでも?」

「誰にでもじゃない。感じ取れる人にだけ。あと、むやみに広めない人」

「私が広めたら?」

「信じてもらえないと思う」

「それはそう」

「それに、たぶん君は言わない」

 透子は少しむっとした。

「どうしてわかるの」

「絵を見るとき、簡単に決めつけないから」

 思いがけない言葉だった。

 透子は黙った。

「さっきの石の絵も、丸と三角と四角も、否定しようとはしたけど、ちゃんと見てた。自分が感じたことも、なかったことにしなかった」

「それは……」

「だから、言った」

 蒼はそれだけ言うと、木箱の留め具を閉めた。

 透子は、返事を探した。

 褒められたのだろうか。

 そう思いかけて、違う気がした。蒼は評価したのではない。ただ、透子がどう見ていたかを言っただけだ。

 それなのに、少しだけ胸に残った。

 簡単に決めつけない。

 自分はむしろ、何でも分析して決めつける人間だと思っていた。絵を見れば意図を読み、技法を分類し、欠点と狙いを整理する。そうやって、絵を安全な場所へ置いてきた。

 でも、昨日の海の絵も、今日の蒼の絵も、決めつけきれなかった。

 わからないものを、わからないまま見てしまった。

 それを蒼は、ちゃんと見ていた、と言った。

 広場の空気が、少しずつ明るくなっていた。

 雲が薄くなり、海の方から差す光が石畳を照らし始める。水たまりの中に、白い空が広がった。喫茶店の窓には、通りを歩く人影がぼんやり映っている。

 時間が過ぎていることに、透子はようやく気づいた。

 鞄の中でスマートフォンが震えた。

 取り出すと、母からのメッセージだった。

 ――遅くなる?

 時計を見る。

 思っていたより遅い。

 透子は短く返信した。

 ――もう帰る。

 スマートフォンをしまうと、急に現実に戻された気がした。

 帰らなければならない。

 夕食があって、宿題があって、明日も学校がある。美術部もある。県高校美術展の展示はまだ続いていて、自分の受賞作は白い壁にかかったままだ。

 魔法などという言葉を聞いたあとでも、日常はそのまま続いている。

 透子は、蒼を見た。

「今日は、帰る」

「うん」

 蒼は頷いた。

 あっさりしていた。

 引き止めるでも、さらに説明するでもない。彼にとっては、ここで終わっても構わない会話なのかもしれない。

 透子は少しだけ、置いていかれたような気持ちになった。

 自分はこんなに揺さぶられているのに、蒼は静かなままだ。

「その……」

 言いかけて、透子は止まった。

 何を言うつもりだったのか、自分でもわからない。

 また見せて。  もっと教えて。  魔法のことを。  絵のことを。  あなたのことを。

 どれも違う気がした。

 透子は、布に隠されたおばあさんの絵を見た。

 光は、まだそこにあった。

 魔法なのだと言われた。

 それで落胆した。

 でも、落胆したからといって、もう見たくないわけではなかった。

 むしろ、見たい。

 魔法という答えでは片づけられない何かが、まだ蒼の絵には残っている気がした。あの子どもの似顔絵は、魔具を使っていないと言っていた。それでも光った。なら、そこには技法でも魔法でもない、別のものがあるのではないか。

 透子は自分の中で、言葉を選んだ。

「明日も」

 蒼が顔を上げる。

「明日も来る」

 言ってから、少し強引だったと思った。

 約束を取り付けるというより、宣言に近い。

 蒼は目を瞬かせた。

 驚いていた。

 それが少しだけおかしくて、透子はほんのわずかに肩の力を抜いた。

「だめ?」

「だめではないけど」

「なら来る」

「僕がここにいるとは限らないよ」

「じゃあ、いるかもしれない時間を教えて」

 蒼は困ったように笑った。

「放課後くらいなら、たぶん」

「たぶん?」

「天気による」

「雨なら?」

「雨なら、描けない」

「じゃあ、晴れか曇りなら」

「……いると思う」

「わかった」

 透子は頷いた。

 蒼はまだ少し驚いた顔をしていたが、やがて小さく言った。

「三崎さんは、変わってるね」

「湊くんに言われたくない」

「それはそうか」

 蒼は軽く笑った。

 その笑いは、親子連れに向けていたものよりも少しだけ近かった。けれど、まだ距離はある。海辺の広場で偶然会っただけの二人。その距離のまま、ほんの少しだけ、明日の約束が置かれた。

 透子は鞄の肩紐を持ち直した。

「じゃあ」

「うん。また」

 また。

 その言葉が、思ったより自然に聞こえた。

 透子は商店街の方へ歩き出した。

 数歩進んで、振り返りそうになったが、やめた。振り返ったら、布の下のおばあさんの絵をもう一度見たくなる。蒼の筆を、金属ケースを、スケッチブックを見たくなる。そしてきっと、また帰れなくなる。

 石畳を抜け、商店街へ戻る。

 夕方の光が、アーケードの曇った屋根を白くしていた。店先の風鈴が鳴る。魚屋の前では、店主が濡れた床をホースで流している。水がタイルを伝い、側溝へ消えていく。

 透子は歩きながら、自分の手を見る。

 何も持っていない手。

 魔法の筆も、魔法の絵の具もない。あるのは、鉛筆の跡が残る指と、何度も絵を描いてきた手だけだ。

 魔法なら、仕方ない。

 さっき自分はそう言った。

 それは本音だった。

 自分が欲しかったものが、努力や観察や技法では手に入らないものなのだとしたら、諦めるしかない。そう思った。思おうとした。

 けれど、商店街を歩くうちに、その諦めは少しずつ形を変えていった。

 蒼の絵を、もっと見たい。

 魔法の正体を暴きたいからではない。  魔法を自分も使えるようになりたいからでもない。

 彼が、何を見ているのか知りたかった。

 道端の石に悲しみを見た理由。  親子の時間を船で残した理由。  おばあさんの横顔を、あんなふうに光らせた理由。

 魔法だという説明だけでは足りなかった。

 たとえ本当に魔法だったとしても、筆を取ったのは蒼だ。  石を選んだのも、線を引いたのも、色を置いたのも、あの白を輪郭の外に残したのも、蒼だった。

 なら、そこにはまだ、彼自身の絵があるはずだった。

 透子は足を止めた。

 商店街の出口から、遠くの空が見えた。雲の切れ間が広がり、海の方が明るくなっている。梅雨明けは近いのかもしれない。湿った風の中に、ほんの少しだけ夏の匂いが混ざっていた。

 透子は、昨日展示室で見た海の絵を思い出した。

 あの光の理由を知りたかった。

 今も、知りたい。

 けれどその理由は、魔法という言葉だけでは終わらない気がした。

 透子は再び歩き出した。

 鞄の中には、使い慣れたスケッチブックと鉛筆が入っている。今日は結局、一枚も描かなかった。けれど、白い紙の前で固まっていた昨日の夜とは、少しだけ違う。

 描ける気がしたわけではない。

 答えを見つけたわけでもない。

 ただ、明日また、あの絵を見ることができる。

 そう思うと、胸の奥に残っていた落胆の中に、小さな熱が混ざった。

 魔法そのものよりも。

 透子は、蒼の絵をもっと見たいと思っていた。


 翌日の放課後、空は朝から重かった。

 雨は降っていない。けれど雲は低く、校舎の窓から見える街は、薄い灰色の膜をかぶっているようだった。梅雨明け前の空気は水分を含みすぎていて、教室の床も、机の天板も、少しだけ湿っている気がした。

 透子は、授業中ずっと窓の外を見ないようにしていた。

 見れば、昨日の広場を思い出すからだ。

 石畳。  布で半分隠されたおばあさんの絵。  赤い丸、青い三角、黄色がかった四角。  そして、蒼の静かな声。

 魔法なんだ。

 その言葉は、一晩経ってもまだ現実味を持たなかった。

 けれど、まったくの冗談として片づけることもできなかった。赤い丸を見たときの懐かしさは、眠る前にも思い出した。青い三角の焦りは、朝、目覚ましの音を聞いた瞬間に胸の奥で少しだけ蘇った。四角の諦めは、制服のボタンを留めるとき、指先に残っていた。

 何かがおかしい。

 そう思う。

 でも、それを「おかしい」と言い切るには、あの光はあまりにも確かだった。

 放課後、美術室へ行くかどうか、透子は迷った。

 いつもなら何も考えずに向かう場所だ。スケッチブックを開き、課題の続きを描き、必要なら由衣に助言する。榊に声をかけられれば返事をする。そういう日常の流れがある。

 けれど今日は、美術室へ行っても描ける気がしなかった。

 白い紙の前に座れば、きっと昨日の赤い丸を思い出す。自分の絵に光がないことを、もう一度確認するだけになる。

 透子は鞄を持って、教室を出た。

 廊下の窓から、校庭の隅の紫陽花が見えた。雨を待っているような、雨に疲れているような色だった。青も紫も、雲の下では沈んでいる。下駄箱で靴を履き替えるとき、由衣に声をかけられた。

「透子、今日部活来ないの?」

「うん。ちょっと用事」

「展示?」

「違う」

「そっか。また明日ね」

「うん」

 由衣は深く聞かなかった。

 その気軽さに少しだけ救われながら、透子は校門を出た。

 昨日と同じ道を歩く。

 駅前とは反対側へ曲がり、古い商店街へ向かう。濡れてはいないのに、道の端には昨日の雨の名残がまだ残っていた。側溝のふたの隙間から、湿った匂いが上がってくる。パン屋の前を通ると、バターと砂糖の甘い匂いがした。魚屋では店主が発泡スチロールの箱を片づけていて、氷がざらざらと音を立てている。

 透子は、歩きながら何度も自分に言い訳をした。

 魔法を信じたわけではない。  ただ、確認しに行くだけ。  昨日見たものが本当にあったのか。  蒼の絵が、もう一度同じように見えるのか。

 それだけだ。

 そう思おうとした。

 けれど、坂道に差しかかるころには、その言い訳は少しずつ崩れていた。

 本当は、蒼の絵を見たかった。

 昨日、帰り道で認めたことを、もう一度認めるしかなかった。魔法という言葉にはまだ抵抗がある。あの筆や絵の具が何なのかもわからない。蒼自身のことも、ほとんど知らない。

 それでも、彼が何を見るのかを見たかった。

 坂を下ると、昨日の広場が見えた。

 石畳の広場。花壇。錆びたベンチ。喫茶店の白い壁。低い掲示板。建物の隙間から覗く港。

 だが、蒼はいなかった。

 透子は足を止めた。

 広場には、昨日の折りたたみ椅子も、木箱も、手書きの札もない。喫茶店の前に自転車が一台停まっているだけだった。花壇の土は黒く湿っていて、マリーゴールドの花びらに小さな虫が乗っていた。

 いない。

 それだけのことなのに、胸の中に小さな空白ができた。

 昨日、蒼は「天気による」と言っていた。今日は雨ではないが、晴れてもいない。だから来なかったのかもしれない。あるいは、時間が早すぎたのかもしれない。そもそも、昨日の約束は約束と呼べるほどのものではなかった。

 透子は広場の中央まで歩き、周囲を見回した。

 誰かに聞くのも変だと思った。

 路上で絵を描いていた少年を知りませんか。  魔法の絵の具を持っていた人です。

 そんなことを言えるはずがない。

 帰ろうかと思った。

 そのとき、喫茶店のドアが開いた。

 中から出てきたのは、昨日見た少年ではなく、白髪交じりの女性だった。年齢は五十代後半くらいだろうか。白いシャツに、紺色のエプロン。手には小さな盆を持っている。盆の上には、店の外に置くための砂糖壺のようなものが乗っていた。

 女性は透子を見ると、少しだけ目を細めた。

「あら」

 透子は反射的に会釈した。

「こんにちは」

「蒼くんに用事?」

 名前が出た。

 透子は少し驚いたが、できるだけ表情に出さないようにした。

「……はい。昨日、ここで絵を描いていたので」

「今日は風が重いから、外には出てないわよ」

「風が、重い?」

 女性は空を見上げた。

「降りそうで降らない日は、紙が落ち着かないんだって」

 その言い方は、どこか蒼に似ていた。変なことを言っているのに、当たり前のように口にする。

「もしよかったら、奥にいると思うけど」

「奥?」

「アトリエ。ここの裏手」

 透子は喫茶店の横を見た。建物の脇に、細い路地がある。昨日は気づかなかった。石段が数段あり、その先に古い木戸が見える。木戸の向こうは坂の下へ続いているようだった。

 女性は盆を小さなテーブルに置き、路地の方を指した。

「白い建物の二階。海が見えるところ。勝手に入ると怒られるかもしれないけど、蒼くん、人を追い返すのは下手だから」

 透子は戸惑った。

「いいんですか」

「会う約束をしてたんでしょう?」

「約束というか……私が勝手に来るって言っただけです」

「あの子、そういうのでも覚えてるわよ」

 女性は少し笑った。

「私は白瀬佳乃。あのアトリエの管理をしてるの。蒼くんのことも、少しだけ預かってる」

 少しだけ預かっている。

 その言葉は不思議だったが、透子は深く聞かなかった。

「三崎透子です」

「三崎さんね。行ってみたら。たぶん、いるから」

 透子はもう一度会釈し、路地へ向かった。

 喫茶店の横の石段は、雨のあとで少し滑りやすくなっていた。壁には蔦が這い、細い葉の先に水滴が残っている。路地は狭く、建物と建物の間を抜ける風が、湿った潮の匂いを運んできた。

 木戸を押すと、ぎい、と小さな音がした。

 その先には、坂の途中に建つ古い白い建物があった。

 一階は倉庫のように見える。錆びたシャッターと、使われていない木箱。外階段が二階へ続いていて、手すりの塗装はところどころ剥げていた。建物の向こう側には、海が見えた。曇り空の下の海は青ではなく、鈍い銀色をしている。港の堤防と、小さな船の影が遠くにあった。

 二階の窓が開いていた。

 白いカーテンが、湿った風にゆっくり揺れている。

 透子は外階段を上がった。

 上がるたびに、港の音が近づく。波が堤防に当たる音。ロープが柱に擦れる音。遠くの船のエンジン。そこに、かすかな絵の具の匂いが混ざった。

 扉の前で、透子は一度立ち止まった。

 ノックをする。

 返事はすぐにはなかった。

 もう一度、少し強めに叩く。

「はい」

 中から蒼の声がした。

 扉が開く。

 蒼は、昨日と同じような白いシャツを着ていた。袖をまくり、片手に鉛筆を持っている。髪は少し乱れていて、額に細い影を落としていた。

 透子を見て、彼は目を瞬かせた。

「本当に来た」

「来るって言ったから」

「うん。言ってた」

「いないかと思った」

「外にはいなかったね」

「紙が落ち着かないから?」

 蒼は少しだけ不思議そうにしてから、苦笑した。

「佳乃さんに会ったんだ」

「喫茶店の人?」

「うん」

「アトリエの管理をしてるって」

「そう」

 蒼は扉を少し広げた。

「入る?」

 透子は中を見た。

 小さなアトリエだった。

 広いとは言えない。けれど天井が高く、海側の窓が大きいので、狭さは感じなかった。床は古い木で、ところどころ絵の具の跡が染み込んでいる。壁際には棚があり、スケッチブック、木箱、空き瓶、古い画集が雑然と並んでいた。窓際には作業机。机の上には水入れ、鉛筆、筆、布、いくつかの紙片。

 部屋の中央にはイーゼルが一台立っている。

 そこには、描きかけの絵が置かれていた。

 透子は、すぐにそれへ視線を奪われた。

 港の絵だった。

 窓から見える景色を描いているのだろう。曇った海、堤防、船、低い倉庫、空の白さ。鉛筆と薄い水彩で描かれていて、まだ完成していない。線は軽く、色も控えめだ。

 そして、光はなかった。

 少なくとも、透子にはそう見えた。

 昨日の絵とは違う。

 おばあさんの肖像にも、石の絵にも、図形にもあったあの揺らぎが、この港の絵にはない。普通の絵だった。

 いや、普通という言い方は雑かもしれない。

 悪くない絵だ。空の重さや、海の鈍い光の捉え方は丁寧だった。港の倉庫の形も、船の位置も、自然に収まっている。まだ粗い部分はあるが、練習としては十分だ。

 ただ、昨日のような不思議さはない。

 透子が絵を見つめていると、蒼は少しだけ気まずそうに言った。

「それは、普通に描いてる」

「普通に?」

「昨日見せた道具は使ってない」

 透子は部屋の中へ入った。

 絵の具の匂いが近くなる。水と紙と木の匂い。窓から入る潮風が、それを薄く広げている。カーテンが揺れ、床に白い影を落とした。

「使わないの?」

「普段はね」

「どうして」

 透子は、港の絵から蒼へ視線を移した。

「使えば、もっと……」

 言いかけて止まる。

 もっと、何だろう。

 もっと人を惹きつける。  もっと光る。  もっと心を動かす。

 どれも正しい気がした。

 蒼は、透子が言葉を選んでいるのを見て、静かに続きを引き取った。

「もっといい絵になる?」

「……少なくとも、昨日の絵みたいになるんでしょう」

「なると思う」

「なら、どうして使わないの」

 蒼は机の上に鉛筆を置いた。

 それから、棚の上の木箱に目を向ける。昨日見た古い筆と金属ケースは、その中に入っているのだろう。箱の蓋は閉じられていた。

「魔具で描いた絵は、自分の絵じゃない気がするから」

 透子は黙った。

 自分の絵じゃない。

 その言葉は、思ったよりも深く刺さった。

「魔具って、昨日の筆と絵の具?」

「うん。そう呼んでる」

「魔法の道具だから、魔具」

「そう」

「それで描くと、自分の絵じゃなくなるの?」

「完全にそうとは言えない。でも、そう感じる」

 蒼はイーゼルの前に立ち、描きかけの港の絵を見た。

「魔法の筆は、描くものに存在感を与える。生きているものなら、そこにいる感じが強くなる。石みたいなものでも、重さとか、手触りとか、そういうものが出る。僕が気づいていないところまで、筆が拾うことがある」

「自動で動くってこと?」

「少し違う。手は僕が動かしてる。でも、どの線がいいか、筆の方が知っているみたいな感じになる」

 透子は昨日の石の絵を思い出した。

 蒼の手は確かに動いていた。だが、どこかで筆に導かれているように見えた。あの印象は間違っていなかったのだ。

「絵の具は?」

「感情を入れる」

 蒼は短く言った。

 透子は眉を寄せた。

「入れる?」

「描いているときの気持ちとか、描く対象に向けた思いとか。そういうものが、色に混ざる。見る人は、それを感じる」

「だから、赤い丸から懐かしさがした」

「たぶん」

「青い三角は焦り」

「うん」

「四角は諦め」

 蒼は少しだけ目を細めた。

「そう見えたんだ」

「違った?」

「いや。だいたい合ってる」

 透子は、背筋に小さな震えが走るのを感じた。

 昨日、自分が感じたものは、やはり偶然ではなかった。

 蒼は机の上の布を手に取り、指先で小さく畳んだ。

「でも、強く使いすぎると、僕の意図を超える」

「意図を超える?」

「描こうとした以上のものが入る。僕が隠しておきたいことまで、絵に出る。見る人が、僕の思っていたのとは違うものを受け取ることもある」

「それは、普通の絵でもあるんじゃない」

「あると思う」

 蒼は頷いた。

「でも魔具だと、それが強すぎる。たとえば、悲しいと思って描いたら、悲しみを表現した絵じゃなくて、悲しみそのものに近くなる。見る人が、ただ悲しい絵だと思うだけじゃなくて、本当に悲しくなる」

 透子は石の絵を思い出した。

 道端の小さな石。  青い影。  輪郭の外に置かれた白。  理由のつかない悲しさ。

 あれは、美術的な表現ではなかった。蒼の言う通り、悲しみそのものが紙の上に薄く残っていたのかもしれない。

「便利そうだけど」

 透子は言った。

 蒼は少しだけ笑った。

「そう思う?」

「少なくとも、絵を描く人なら欲しがると思う」

「三崎さんも?」

 透子はすぐに答えなかった。

 昨日なら、たぶん欲しいと思った。

 人の心を動かす絵が描けるなら。自分の絵に足りないものを、その道具が補ってくれるなら。そう思ったかもしれない。

 でも今、蒼の説明を聞いていると、簡単には言えなかった。

 自分の意図を超える道具。  隠しておきたいものまで絵に出る道具。  悲しみを、本当に悲しみとして人に渡してしまう道具。

 それは、怖い。

「わからない」

 透子は言った。

「使ってみたい気もする。でも、使いたくない気もする」

「それくらいが普通だと思う」

「湊くんは、使いたくない方が強い?」

「うん」

 蒼は、描きかけの港の絵へ向き直った。

「僕は、自分の手で描きたい。どの線も、どの色も、自分で選んだと思いたい。たとえ下手でも、届かなくても」

「でも、昨日の子どもの絵は、魔具を使ってないのに光ってた」

 透子は言った。

 蒼の肩がわずかに動いた。

「そういうこともあるって言ってたよね」

「うん」

「思い入れが強いと、残るって」

「……そう」

「でも、あの親子とは初対面でしょ」

「初対面でも、描いている間に少し近くなることはある。会話を聞いたり、表情を見たり、仕草を覚えたりすると、その人の時間に触れるから」

 蒼は窓の外を見た。

 港の水面は、曇り空を映して鈍く揺れている。

「そういうとき、たまに残る。魔具を使わなくても。ほんの少しだけ」

「それも嫌なの?」

 蒼は答えなかった。

 それが答えだった。

 透子は少し考えた。

「だから、知らない人を描くって言ったの」

 昨日の広場で蒼が言った言葉。

 知らない人を描く練習。

 その意味が、少しだけわかった気がした。

「思い入れが強くならないように?」

「うん」

「知らない人なら、魔法が混ざらないから?」

「混ざりにくい」

「それで路上で描いてるの」

「練習にもなるし」

 蒼は軽く付け足したが、透子にはその言葉の方が後づけに聞こえた。

 彼は、魔法を避けるために絵を描いている。

 魔法使いなのに。

 透子は、その矛盾を少し痛ましく感じた。

「変なの」

 言ってから、きつい言い方だったかと思った。

 だが蒼は怒らなかった。

「そうだね」

「魔法があるのに、使いたくないなんて」

「三崎さんは、絵が上手いのに、自分の絵が嫌なんじゃないの」

 透子は息を止めた。

 蒼は、こちらを見ていなかった。

 何気なく言ったのではない。けれど、責めるような声でもなかった。ただ、昨日と今日の透子の様子から、そう見えたことを口にしただけのようだった。

 透子は、すぐには返事をしなかった。

 部屋の中を、海風が通る。カーテンが膨らみ、机の上の紙片が一枚、少しだけ動いた。蒼がそれを押さえる。その指先には、鉛筆の黒が薄くついている。

「嫌、というか」

 透子はゆっくり言った。

「意味がない気がする」

「意味?」

「褒められる絵は描ける。賞に入る絵も、たぶん描ける。どう描けば評価されるかも、ある程度わかる」

 口にしながら、嫌な言い方だと思った。

 自信過剰に聞こえる。けれど、そういうことではない。透子にとってそれは誇りではなく、むしろ重荷だった。

「でも、それだけ。私は、他の人の絵を見れば、どう描いたのかわかる。なぜその色を選んだのか、どこで迷ったのか、何を見せたかったのか。真似もできる」

「すごいね」

「すごくない」

 反射的に言った。

 蒼は黙った。

「すごくないよ。真似できるだけだから。自分の中から出てきたものじゃない。誰かの描き方を借りて、うまく見えるように組み立ててるだけ」

 透子は、鞄の肩紐を握った。

「自分の絵を見ても、わかる。どこで何を狙ったのか。どの線が人に褒められると思って引いた線なのか。どの色が、寂しそうに見えるように置いた色なのか」

 窓の外の海が、視界の端で鈍く揺れていた。

「だから、空っぽに見える」

 言ってしまった。

 思ったより簡単に。

 誰にもはっきりとは言わなかったことだった。先生にも、由衣にも、母にも。自分には才能がないと曖昧に思うことはあっても、その理由をここまで言葉にしたことはなかった。

 蒼は、すぐに慰めなかった。

 それがありがたかった。

 うまいよ、と言われたら、たぶん透子は黙るしかなかった。才能があるよ、と言われたら、きっと笑って流した。そんな言葉は、何度も聞いたことがある。そしてそのたびに、少しずつ自分の絵から遠ざかる気がしていた。

 蒼はしばらく考えたあと、言った。

「見てもいい?」

「何を」

「三崎さんの絵」

 透子は、反射的に鞄を押さえた。

 スケッチブックは入っている。いつも持ち歩いているものだ。課題の下描き、街のスケッチ、展示室の絵を真似した海辺の坂道、描きかけて消した跡。見せられないものではない。

 むしろ、他人に見せることには慣れている。

 美術部では、互いに絵を見せ合う。先生にも提出する。コンクールにも出す。展示されれば不特定多数の人に見られる。

 それなのに、蒼に見せることには妙な抵抗があった。

 彼には、光が見える。

 いや、蒼は魔法を使う側で、透子の絵に何が見えるのかはわからない。けれど、自分の絵が空っぽだと見抜かれそうで怖かった。

 自分でわかっていることを、他人の目で確認されるのが怖い。

「見ても、面白くないと思う」

「面白いかどうかは、見てから決める」

「上手いだけだよ」

「それも見てから決める」

 透子は少しだけ睨んだ。

「湊くん、意外と強引だね」

「三崎さんほどじゃない」

 そう返されて、言葉に詰まった。

 確かに昨日、自分はかなり強引だった。おばあさんの絵を見せてほしいと言い、石の絵を問い詰め、魔法を否定し、翌日も来ると宣言した。

 透子はため息をつき、鞄からスケッチブックを取り出した。

「笑わないで」

「笑わない」

「変な慰めもいらない」

「わかった」

「あと、褒めなくていい」

「それは約束できない」

「どうして」

「いいと思ったら、言う」

 透子は返事をせず、スケッチブックを渡した。

 蒼は両手で受け取った。

 その持ち方が丁寧だったので、透子は少しだけ視線を逸らした。

 蒼は最初のページを開く。

 古い校舎の廊下。  美術室の窓辺の石膏像。  雨の日の傘立て。  商店街の八百屋。  自室の机。  母の手元。  そして、『雨上がりの教室』のための構図案。

 蒼は、一枚ずつゆっくり見た。

 速くも遅くもない。絵を流し見しているわけではないが、細部に必要以上に留まることもしない。ページをめくるたびに、少しだけ目が動く。線を追い、余白を見て、色の置き方を確かめている。

 透子は、その沈黙が落ち着かなかった。

 普段なら、自分の絵を見られるのは平気だ。むしろ、相手がどこを見るかを観察していることもある。賞に出した絵なら、相手の反応はだいたい予想できる。どこで「きれい」と言うか、どこで「すごい」と言うか。

 だが蒼は何も言わない。

 ただ、丁寧に見ている。

 その静けさが、透子には怖かった。

「何か言えば」

 我慢できずに言うと、蒼は顔を上げた。

「見てる途中」

「見ながらでも言えるでしょ」

「言えるけど、まだ言わない」

「どうして」

「最初に言う言葉を間違えそうだから」

 透子は黙った。

 蒼はまたスケッチブックへ視線を戻した。

 やがて、展示室の海の絵を真似たページで手が止まった。

 透子の胸が硬くなる。

 海辺の坂道。

 あの絵を真似して描いた習作。構図は整っている。色も悪くない。だが、光はない。ただの模写。透子自身が一番見たくないページだった。

「これは?」

 蒼が聞いた。

「展示で見た絵を、思い出して描いた」

「昨日言ってた海の絵?」

「うん」

「うまいね」

「褒めなくていいって言った」

「褒めてるというより、事実として」

「それが嫌なの」

 蒼は透子を見た。

 透子は自分の言葉が刺々しいことを自覚していたが、取り消さなかった。

「うまいだけだから」

 蒼はもう一度、そのページを見た。

「うまいだけ、という感じはする」

 透子は、胸の奥が一瞬で冷えるのを感じた。

 自分で言った言葉だった。だが他人に言われると、思った以上に痛かった。

 蒼はすぐに続けた。

「でも、悪い意味だけじゃないよ」

「どういう意味」

「これだけ正確に覚えて、短い時間で形にできるのは、すごいと思う。線も色も、よく見てる。何をどう置けば絵として成立するか、ちゃんとわかってる」

「それは、技術でしょ」

「技術は大事だよ」

「でも、それだけじゃ駄目」

 声が少し震えた。

 蒼は否定しなかった。

「うん」

 その「うん」が、また痛かった。

 でも、不思議と腹は立たなかった。蒼は透子の絵を貶しているのではない。透子自身が感じていることを、雑に慰めず、正面から見ている。

「この絵」

 蒼は言った。

「描きながら、何を見てた?」

「何を?」

「元の絵」

「覚えてる範囲で」

「それはわかる。そうじゃなくて、何を見ようとして描いたのか」

 透子はページを見下ろした。

 坂道。海。空。石段。草。

「光」

「うん」

「元の絵にあった光を、描きたかった」

「描けた?」

「描けてない」

「どうして?」

「わからないから」

 透子は唇を結んだ。

「どこから来てる光なのか、わからなかった。構図も色も真似できるのに、あの眩しさだけが入らない」

「それを描こうとしてる感じはある」

「でも描けてない」

「うん」

 蒼は正直だった。

 透子は少しだけ笑いそうになった。

 ひどい、と思う気持ちもあった。けれど、下手な慰めよりずっとましだった。

 蒼はさらにページをめくった。

 自分の受賞作のための構図案で手を止める。教室、花瓶、雨上がりの窓。いくつものパターンが小さく描かれている。

「これ、出した絵?」

「その下描き」

「完成作は?」

「今、展示されてる」

「見てみたい」

「見なくていい」

「どうして」

「たぶん、今見てる下描きでだいたいわかるから」

 蒼はそのページをじっと見た。

「きれいな絵になったと思う」

「なったよ」

「寂しい絵?」

「そう見えるように描いた」

「そう見せたかった?」

「そう見せれば、評価されると思った」

 自分で言って、透子は小さく息を吐いた。

 最低な言い方だと思った。

 しかし蒼は、やはり責めなかった。

「それも、絵の描き方のひとつだと思う」

「でも、私の絵じゃない」

 蒼はページから顔を上げた。

 透子も、自分の言葉に気づいていた。

 私の絵じゃない。

 それは、先ほど蒼が魔具について言った言葉とほとんど同じだった。

 魔具で描いた絵は、自分の絵じゃない気がする。

 透子は、自分の胸の奥にあった感情が、蒼のそれと少し似ていることを理解した。

 彼は魔法が混ざることを恐れている。  透子は他人の技法が混ざることを恐れている。

 彼は、筆が勝手に線を選ぶことが嫌だ。  透子は、自分が評価される線を選べてしまうことが嫌だ。

 どちらも、絵は描ける。

 なのに、自分の絵だと思えない。

「似てるね」

 蒼がぽつりと言った。

 透子は少しだけ視線を落とした。

「嫌な似方」

「うん」

「そこは否定してよ」

「否定した方がよかった?」

「別に」

 透子は窓の外を見た。

 海は相変わらず曇っている。だが雲の切れ間が少しだけ広がり、水面の一部に白い光が落ちていた。その光は、昨日の展示室で見た絵の光とは違う。現実の光。誰にでも見える光。

 けれどそれを見て、透子は少しだけ描きたいと思った。

 うまく描けるかどうかではなく。

 あの白が、どこへ消えるのかを見ていたいと思った。

 蒼はスケッチブックを閉じ、透子に返した。

「ありがとう」

「何か、わかった?」

「三崎さんは、すごく絵がうまい」

「それは聞き飽きた」

「それと、たぶん、すごく怖がってる」

 透子は返しかけた言葉を飲み込んだ。

「何を」

「自分の気持ちを絵に入れること」

 部屋の中に、海風が通った。

 机の上の水入れの表面が、かすかに揺れる。

 透子は反論しようとした。

 怖がっていない。  入れる気持ちがないだけ。  自分にはそんなものがないだけ。

 だが、どの言葉もすぐに出てこなかった。

 蒼は続けなかった。

 そこが、彼の不思議なところだった。核心に触れるようなことを言うのに、追い詰めようとはしない。透子が自分で見るまで、そこで止まっている。

「湊くんは」

 透子は言った。

「何を怖がってるの」

 蒼は窓の外を見た。

「自分の気持ちが、勝手に絵に残ること」

「それは、悪いことなの」

「わからない。でも、怖い」

「どうして」

「誰かに見せたくないものまで、見せてしまう気がするから」

 その声は、とても静かだった。

 透子はそれ以上聞けなかった。

 部屋の中に、しばらく沈黙が落ちた。

 気まずい沈黙ではなかった。何かを言わなければいけないのに言えない、というより、それぞれが自分の中に落ちた言葉を見ている時間だった。

 窓の外で、船の汽笛が短く鳴った。

 蒼が先に口を開いた。

「三崎さん、技法を教えてくれない?」

「私が?」

「うん」

「湊くんに?」

「僕に」

「魔法があるのに?」

「だから、普通の描き方を練習してる」

 透子は、イーゼルの港の絵を見た。

 光はない。魔法の煌めきもない。

 けれど、蒼が自分の手で描こうとしている絵だった。

「何を教えればいいの」

「形の取り方とか、構図とか、色の混ぜ方とか。三崎さんがわかること」

「それなら、教えられると思う」

「代わりに」

 蒼は少し迷うように言った。

「僕は、心を込めることについて、一緒に考える」

「教えてくれるんじゃないの」

「教えられるほど、僕もわかってない」

「魔法使いなのに」

「魔法使いでも、わからないことは多い」

 透子は少しだけ笑った。

 その笑いは、昨日から張り詰めていたものが緩んだような、小さなものだった。

「頼りないね」

「うん」

「でも、正直ではある」

「それは、たぶん」

 蒼も少し笑った。

 距離が縮まった、というほどではない。

 まだ互いに知らないことの方が多い。蒼は自分の来た場所についてほとんど話していない。透子も、自分の絵の痛みをすべて話したわけではない。魔法という言葉も、まだ透子の中では完全に形になっていない。

 それでも、ふたりは同じ部屋にいた。

 海の見える小さなアトリエで、同じ絵を見ていた。

「明日も来ていい?」

 透子は言った。

 今度は、昨日より少しだけ自然に言えた。

 蒼は頷いた。

「うん。雨じゃなければ外にいるかもしれない。雨なら、ここ」

「紙が落ち着かないから?」

「それもある」

「他にも?」

「雨の音が大きいと、絵がそっちに引っ張られる」

「また変なこと言う」

「たぶん、三崎さんもそのうちわかる」

「わかりたくないような、わかりたいような」

「それくらいが普通だと思う」

 同じことをまた言われて、透子は少しだけ肩をすくめた。

 帰る前に、透子はイーゼルの港の絵をもう一度見た。

「ここ」

 思わず指を差す。

 蒼が近づいた。

「倉庫の屋根の角度、少し違う。窓から見るともっと浅い。あと、堤防の線をこのまま水平にすると、海が止まりすぎる。少しだけ手前の影を斜めに入れた方が、奥行きが出ると思う」

 蒼は絵と窓の外を見比べた。

「本当だ」

「船は悪くない。でも、こっちの影が濃すぎる。そこに目が行くから、空の重さが弱くなる」

「なるほど」

「あと、空を全部同じ灰色にしない方がいい。雲の下だけ少し青を残すと、海とつながる」

 言いながら、透子は少しだけ自分の声が変わっていることに気づいた。

 分析している。

 いつもと同じように、絵を見て、直すべきところを言っている。

 けれど今は、それが少しだけ嫌ではなかった。

 蒼は真剣に聞いている。透子の言葉を、ただ褒め言葉として消費しない。どう直すか、自分の手で確かめようとしている。

 技法にも、意味はある。

 今さらそんな当たり前のことを、透子は小さく思った。

「すごいね」

 蒼が言った。

「またそれ」

「いや、今のは本当に助かった」

「じゃあ、明日までに直してみて」

「宿題?」

「練習」

 蒼は少し困ったように、けれど楽しそうに笑った。

「わかった」

 透子は鞄を持った。

 扉のところで振り返ると、蒼はもうイーゼルの前に立っていた。鉛筆を持ち、窓の外と絵を見比べている。その横顔には、昨日の魔具を使ったときのような深い沈みはない。けれど、静かな集中があった。

 魔法の光はない。

 それでも彼は描いている。

 透子はその姿を少しだけ見て、扉を開けた。

 外階段に出ると、海風が正面から吹いた。雲の切れ間はさっきより広がっていて、港の水面に細い光が伸びている。階段の手すりは少し湿っていたが、もう雨の匂いは薄くなっていた。

 坂を下りる前に、透子はアトリエの窓を見上げた。

 白いカーテンが揺れている。窓の奥で、蒼の影が少し動いた。絵を直しているのだろう。

 透子は鞄の中のスケッチブックに触れた。

 自分の絵は、まだ空っぽかもしれない。  蒼の絵も、彼自身にとってはまだ自分のものではないのかもしれない。

 でも、練習ならできる。

 技法を教えることならできる。  心を込めることを、一緒に考えることならできるかもしれない。

 答えではなく、約束のようなものが、胸の中に残っていた。

 透子は坂道を上り始めた。

 湿った石畳の上で、夕方の光が少しだけ揺れていた。