魔法なんだ、と蒼は言った。
その言葉は、雨上がりの広場にあまりにも静かに落ちた。
派手な音はしなかった。空が割れることも、風が巻き起こることも、光が溢れることもなかった。ただ、湿った石畳の上に、小さな水たまりがあり、喫茶店のドアベルがかすかに鳴り、商店街の方から揚げ物の匂いが流れてくる。
そこは、どこから見ても普通の街だった。
海辺の、古くて、少し寂れた商店街の端。雨のあとで空気が重く、雲の向こうに夏の光が滲んでいるだけの場所。
なのに、目の前のスケッチブックには、赤い丸と、青い三角と、黄色がかった四角が描かれていた。
ただそれだけの図形が、透子の胸の中を静かに乱している。
赤い丸を見ると、懐かしさがある。 青い三角を見ると、焦りが刺さる。 四角を見ると、諦めに似た沈黙が広がる。
透子は、しばらく何も言えなかった。
言うべき言葉は、いくつも思いついていた。
そんなものはあり得ない。 何か仕掛けがある。 特殊な顔料を使っている。 見る人の心理を誘導している。 色彩や形態が与える印象を、魔法などと言い換えているだけ。
どれも、自分が言いそうな言葉だった。
なのに、どれも口に出す前に弱くなった。
紙の上の三つの図形が、それらの言葉を許さないように、静かにそこにあった。
「……手品?」
ようやく出た声は、自分でも頼りなく聞こえた。
蒼は笑わなかった。
「手品ではないよ」
「じゃあ、特殊な絵の具」
「普通の店では売ってない」
「なら、やっぱり特殊な画材じゃない」
「そうとも言える」
蒼はあっさり認めた。
透子は眉を寄せた。
「じゃあ魔法じゃない」
「特殊な画材、という言い方で済ませたいなら、それでもいいよ」
「そういう言い方、ずるい」
「うん」
蒼は少し困ったように、手元の筆を見た。
その筆は、先ほどまで図形を描いていたものだ。濡れた筆先に、赤と青と黄色がわずかに残っている。光の加減で、黒い毛先の中に青い色がひと筋混じって見えた。
透子は、その筆から目を離せなかった。
ただの道具のはずだった。木の軸と、毛の束と、水と絵の具。絵を描くためのもの。美術室にも似たような筆は山ほどある。値段の高いものも、安いものも、使い込まれて毛先が割れたものも。
けれど、この筆には違和感があった。
道具なのに、見られている気がする。
そう思ってしまうこと自体が、透子には不快だった。
自分の感覚が、信用できなくなっている。
「心理誘導は?」
透子は言った。
「さっきから、私がそう感じるように言葉を選んでるとか。石の絵のときも、描く前に何かしてたとか」
「石の絵のとき、僕は何も説明してない」
「でも、表情とか、間とか、そういうもので誘導することはできる」
「できるかもしれない」
「今の図形だって、赤い丸は懐かしく見えやすいし、青い三角は緊張感がある。四角は安定してる。色と形の印象を強めただけなら、魔法じゃない」
蒼は静かに聞いていた。
透子は自分の言葉を重ねながら、どこかで自分自身を説得しようとしていた。これは説明できる現象だ。未知のものではない。美術の範囲、心理学の範囲、技法の範囲。少なくとも、魔法という言葉を持ち出す必要はない。
そう思いたかった。
だが、赤い丸の懐かしさは、まだ胸に残っている。
それは色彩の印象というには、あまりにも具体的な温度を持っていた。透子の知らない記憶の蓋を、指先で少しだけ持ち上げるような感覚だった。
青い三角の焦りも、ただ尖った形を見た不快感ではない。もっと内側に近い。誰かに呼ばれているのに、聞こえないふりをしているときのような、落ち着かなさ。
四角の諦めは、静かだった。 静かすぎて、怖かった。
透子はスケッチブックから顔を上げた。
「何か、混ぜた?」
「絵の具に?」
「うん」
「何かって?」
「香料とか、薬品とか」
言ってから、自分でも少し馬鹿げていると思った。
蒼はそれでも真面目に首を横に振った。
「何も。匂いもしないでしょ」
透子は息を吸った。
潮の匂い。雨上がりの石畳の匂い。喫茶店から漏れるコーヒーの匂い。蒼の木箱からする、古い木と水彩絵の具の匂い。
不審な匂いはない。
「じゃあ、見る角度で変わる顔料?」
「そういうものでもない」
「じゃあ、どういうものなの」
声が少し尖った。
蒼は怒らなかった。
ただ、スケッチブックを閉じた。赤い丸も、青い三角も、黄色がかった四角も、表紙の下に隠れる。途端に、胸の中に残っていた感情が少し遠のいた気がした。
完全には消えない。
でも、息はしやすくなった。
「三崎さんは、絵に光が見えるんだよね」
蒼は言った。
透子は黙った。
それは自分が口にしたことだった。おばあさんの絵が光っている。子どもの似顔絵にも、少し光があった。石の絵にも、図形にも。
言ったのは自分だ。
それでも、改めて他人の口から聞くと、ひどく頼りない話に聞こえた。
「光っていうか……そう見えるだけかもしれない」
「どんなふうに?」
「絵の具の奥が、少し揺れるみたいに。水面みたいだったり、細い線みたいだったり。全部が同じじゃない」
「おばあさんの絵は?」
透子は、布で隠された絵の方を見た。
蒼が先ほど戻した布の下で、肖像はほとんど見えなくなっている。けれど一部だけ、背景の深い青緑が覗いていた。光は、布越しでもかすかに感じられる。
「あれは、もっと強い。輪郭の周りに滲んでる。金色っぽいけど、黄色とは違う。眩しいのに、うるさくない」
蒼は目を伏せた。
透子は続ける。
「昨日見た海の絵は、もっと薄かった。海の白いところだけじゃなくて、画面の奥に残ってる感じ。さっきの子どもの絵は、一瞬だけ。完成したときに、紙の表面が水みたいに光った」
「……やっぱり、見えてるんだ」
蒼の声は小さかった。
その響きに、透子は引っかかった。
「やっぱり?」
「ああ、いや」
「どういう意味」
蒼は困ったように笑った。
またごまかすつもりだ、と透子は思った。
けれど、その笑みは軽いものではなかった。何をどこまで言うべきか、迷っている顔だった。
「普通は、見えない」
蒼は言った。
「何が」
「その光」
「……普通は?」
「うん。普通の人は、絵を見て何か感じることはある。懐かしいとか、悲しいとか、好きだとか、落ち着かないとか。でも、光として見えるわけじゃない」
透子は黙った。
広場の石畳に、雲の切れ間から少しだけ光が落ちた。水たまりの端が白く光り、すぐにまた曇る。
「見える人もいるの?」
「いる。少ないけど」
「それが、何」
蒼は少しだけ間を置いた。
「魔法を感じ取れる人」
透子は、すぐには返事をしなかった。
その言葉は、蒼の「魔法だよ」という言葉よりも、少しだけ現実味を帯びて聞こえた。なぜなら、透子自身がその光を見てしまっているからだ。
信じたわけではない。
けれど、完全に否定するには、自分の目が邪魔だった。
「私は、魔法使いじゃない」
「そうだと思う」
「使えない」
「うん」
「じゃあ、感じ取れるって何」
「見えるとか、聞こえるとか、そういうのに近い。音楽を聴いて、普通の人より細かく音がわかる人がいるでしょ。色の違いに敏感な人もいる。たぶん、それに近い」
「たぶん?」
「僕も、全部を説明できるわけじゃない」
蒼は、自分の手元の筆を木箱に置いた。
置くときの動作が、妙に慎重だった。
「魔法って言っても、何でもできるわけじゃない。僕ができるのは、こういう道具を使って、絵に少しだけ何かを残すことくらい」
「何かって」
「気持ちとか、記憶とか、そういうもの」
透子は思わず笑いそうになった。
気持ち。記憶。
それを絵に残す。
そんなことは、絵を描く人間なら誰でも言う。誰かの思いを込めた絵。記憶を描いた絵。感情を色で表した絵。美術の講評にも、展覧会のキャプションにも、そういう言葉は溢れている。
けれど蒼が言っているのは、たぶん比喩ではない。
赤い丸に残っていた懐かしさ。 石の絵にあった、理由のつかない悲しさ。 おばあさんの肖像の、胸が詰まるような存在感。
それらを思い出すと、比喩では済まなくなる。
「それを、魔法って呼んでるの」
「うん」
「誰が」
蒼は少しだけ視線を遠くへ向けた。
広場の先、建物の隙間から海が見える。灰色の水面に、弱い光がひと筋落ちていた。
「僕のいたところでは」
透子は、その言葉を聞き逃さなかった。
「いたところ?」
蒼は口を閉じた。
透子は一歩も引かなかった。
「この街じゃないってこと?」
「うん」
「県外?」
「違う」
「国外?」
「そういう意味でもない」
透子は眉を寄せた。
「どういう意味」
「……こことは違う場所」
「曖昧すぎる」
「曖昧に言ってる」
「どうして」
「詳しく言っても、今は信じないと思うから」
それは正しかった。
透子は返す言葉を失った。
魔法と言われただけでも頭が追いついていない。さらに、こことは違う場所から来た、などと言われても、受け止めきれるはずがなかった。
それでも、透子は聞かずにはいられなかった。
「本当に、人間?」
口にしたあと、さすがに失礼だったと思った。
蒼は一瞬きょとんとし、それから少し笑った。
「人間だよ。たぶん、君と同じくらいには」
「たぶんって何」
「そこは、あまり考えたことなかった」
透子はため息をついた。
会話が冗談のように流れているのに、冗談ではない。蒼の態度があまりにも落ち着いているせいで、こちらだけが取り乱しているように感じる。
それが少し腹立たしかった。
「どうして隠してるの」
「魔法のこと?」
「うん。そんなものがあるなら、どうして誰も知らないの」
「知らない方がいいから」
蒼の答えは、思ったよりも早かった。
透子は蒼を見る。
彼の表情は穏やかだったが、その言葉だけは少し硬かった。
「魔法は便利なものじゃないよ」
「でも、絵で人の心を動かせるんでしょう」
「それは、便利とは違う」
「同じじゃないの」
「違う」
蒼は、初めてはっきり否定した。
その強さに、透子は少し黙った。
蒼は視線を落とし、木箱の中の金属ケースを指先で閉じた。小さな音がした。かちり、と乾いた音。
「人の心に触るのは、便利なことじゃない。たぶん、危ないことだと思う」
「危ない?」
「描いた人も、見た人も、変わることがある」
「変わるって」
「忘れていたことを思い出したり、思い出さなくていいことを思い出したり。誰かの気持ちに引っ張られたり。絵を見ただけなのに、そこから離れられなくなったり」
透子は、赤い丸を思い出した。
懐かしさ。
どこにも属さない記憶のような感覚。もしあれがもっと強く、もっと深く入り込んできたら、自分はどうなっていただろう。
少し、ぞっとした。
「だから隠すの?」
「それもある。あと、見えない人には本当に見えないから。説明しても、嘘か、病気か、詐欺だと思われる」
「まあ、思うね」
「うん」
蒼は素直に頷いた。
「だから、本当は言わない。見せない。使わない」
「でも、今は見せた」
「三崎さんが、光が見えるって言ったから」
「それだけで?」
「それだけじゃない」
蒼は、透子の目を見た。
「石の絵の悲しさもわかった」
透子は言葉を詰まらせた。
「あれは、技法で説明できる部分もあった」
「うん。でも、それ以外の部分を感じた」
「……感じただけかもしれない」
「それが大事なんだと思う」
蒼の声は静かだった。
自信に満ちているわけではない。むしろ、彼自身も完全にはわかっていないことを、手探りで言葉にしているようだった。
「魔法って、たぶん、感じ取れる人とそうじゃない人がいる。感じ取れる人には、必要なところまで話していいことになってる」
「誰が決めたの」
「僕がいたところの人たち」
「その、違う場所?」
「うん」
「そこから来たの」
蒼は少し迷ってから、頷いた。
「数年前に」
「どうやって」
「今は、それはまだ話せない」
「まだ?」
「うん。たぶん、急に全部話すと、君は余計に信じられなくなる」
透子は否定できなかった。
信じていない。
けれど、信じていないと言い切ることもできない。
それが今の状態だった。
蒼は、無理に説明を続けなかった。木箱を閉じ、スケッチブックを膝の上に戻す。その所作には、見せるべきものは見せた、という静かな区切りがあった。
透子はそれが少し不満だった。
こんなものを見せておいて、ここで終わるのか。
そう思った。
でも同時に、これ以上聞いても、自分の中で何かが壊れそうな気もした。
「信じなくてもいいよ」
蒼は言った。
透子は顔を上げた。
「どういう意味」
「そのまま。信じなくていい。特殊な絵の具だと思ってもいいし、変な手品だと思ってもいい。たぶん、その方が楽だと思う」
「楽?」
「うん。魔法があるって思うよりは」
その言い方に、透子は違和感を覚えた。
魔法。
子どものころなら、その言葉にはもっと明るい響きがあったはずだ。何でもできる力。秘密の世界。願いを叶えるもの。絵本やアニメの中にある、憧れに近いもの。
だが蒼の言う魔法には、そういう浮き立つような明るさがなかった。
むしろ、持て余しているものを仕方なく呼ぶ名前のようだった。
「湊くんは、魔法が嫌いなの」
透子がそう聞くと、蒼は少し驚いた顔をした。
「どうして?」
「誇らしそうじゃないから」
「魔法を?」
「うん。普通、そんなものが使えたら、もっと得意げになりそう」
「三崎さんなら?」
「私は……」
透子は答えに詰まった。
魔法が使えたら。
絵に感情を込められる道具があったら。人の心を動かせる力があったら。
ほしい。
そう思うのが自然なはずだった。
けれど、さっき赤い丸や石の絵を見たあとでは、簡単にほしいとは言えなかった。あれは力だ。しかも、絵を通して人の内側へ入ってくる力。美しいだけではない。少し怖い。
「わからない」
透子は正直に言った。
蒼は、少しだけ安心したように見えた。
「僕も、よくわからない」
「自分の力なのに?」
「自分の力だから、余計に」
透子はその言葉を覚えた。
自分の力だから、余計にわからない。
少しだけ、わかる気がした。
透子も、自分の見る力をうまく扱えない。人の絵を見れば、意図が読める。線の迷いも、色の選択も、どこを見せたかったのかもわかる。だから絵は上手くなる。賞も取れる。
けれど、その力のせいで、自分の絵が空っぽであることまで見えてしまう。
持っているものが、必ずしも救いになるとは限らない。
透子は、閉じられたスケッチブックを見た。
「じゃあ、あの絵も」
「あの絵?」
「おばあさんの絵。あれも魔法なの」
蒼は答えなかった。
沈黙が、それに近い答えだった。
「さっきの子どもの絵も?」
「少しだけ」
「魔法の筆と絵の具を使ったの?」
「子どもの絵には使ってない」
透子は目を細めた。
「使ってないのに、光ってた」
「そういうこともある」
「どういうこと」
「……思い入れが混ざると、残ることがある」
蒼は、それ以上言いたくなさそうだった。
透子は、先ほどの親子連れの絵を思い出した。
あれは初対面の親子だったはずだ。けれど蒼は、子どもの足の揺れや、船を待つ時間を絵に残した。思い入れ、というほど深い関係ではない。それでも、描いている瞬間、そこに心を寄せていたのだろう。
だから、少しだけ光った。
もしそうなら。
透子の中に、また別の問いが生まれた。
では、自分の絵が光らないのは、なぜなのか。
答えは、考えるまでもなかった。
心を寄せていないからだ。
評価される構図。 整った色。 正しい技法。 誰かが褒めやすい余韻。
自分の受賞作には、それらはあった。
でも、心を寄せてはいなかった。
透子は胸の奥が沈むのを感じた。
魔法だと言われた瞬間、どこかで少しだけ期待していたのかもしれない。人の心を動かす絵には、何か技法がある。自分の知らない描き方がある。蒼の絵を見れば、それを学べるかもしれない。
けれど、蒼の答えは魔法だった。
魔法。
自分には使えないもの。
自分が欲しかった絵の理由が、自分の努力とは別の場所にあるのだとしたら。
それは、あまりにも残酷だった。
透子は小さく息を吐いた。
「……なんだ」
声が、思ったよりも低く出た。
蒼がこちらを見る。
「何?」
「魔法なら、仕方ない」
口にした瞬間、自分でもその言葉が冷たいと思った。
だが止められなかった。
「技法じゃないなら、私には真似できない。描き方じゃないなら、知っても意味がない」
蒼は黙った。
透子は、自分が勝手に落胆していることをわかっていた。
蒼は何も悪くない。彼は最初から、描き方ではないと言っていた。魔法だと言っていた。それを信じたくなかったのは透子の方だ。
それでも、胸の中には重いものが残った。
あの光の理由を知りたかった。
昨日からずっと、それだけを追いかけていた。
そしてたどり着いた答えが、自分の手の届かないものだった。
透子は笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「ごめん。変なこと言った」
「変じゃないよ」
「変だよ。初対面の人に、絵が光ってるとか、魔法じゃないとか、勝手に問い詰めて」
「僕も、初対面の人に魔法って言った」
「それはそう」
蒼が少し笑った。
その笑いに、透子の胸の強張りがわずかに緩む。
彼は、本当に無理に信じさせようとしない。魔法を見せておきながら、信じろとも言わない。質問に答えるが、必要以上に踏み込ませない。誇ることも、脅すこともない。
それがかえって、透子には不思議だった。
「秘密なんでしょ」
透子は言った。
「魔法のこと」
「うん」
「私に話してよかったの」
「見えてるなら、話してもいい」
「誰にでも?」
「誰にでもじゃない。感じ取れる人にだけ。あと、むやみに広めない人」
「私が広めたら?」
「信じてもらえないと思う」
「それはそう」
「それに、たぶん君は言わない」
透子は少しむっとした。
「どうしてわかるの」
「絵を見るとき、簡単に決めつけないから」
思いがけない言葉だった。
透子は黙った。
「さっきの石の絵も、丸と三角と四角も、否定しようとはしたけど、ちゃんと見てた。自分が感じたことも、なかったことにしなかった」
「それは……」
「だから、言った」
蒼はそれだけ言うと、木箱の留め具を閉めた。
透子は、返事を探した。
褒められたのだろうか。
そう思いかけて、違う気がした。蒼は評価したのではない。ただ、透子がどう見ていたかを言っただけだ。
それなのに、少しだけ胸に残った。
簡単に決めつけない。
自分はむしろ、何でも分析して決めつける人間だと思っていた。絵を見れば意図を読み、技法を分類し、欠点と狙いを整理する。そうやって、絵を安全な場所へ置いてきた。
でも、昨日の海の絵も、今日の蒼の絵も、決めつけきれなかった。
わからないものを、わからないまま見てしまった。
それを蒼は、ちゃんと見ていた、と言った。
広場の空気が、少しずつ明るくなっていた。
雲が薄くなり、海の方から差す光が石畳を照らし始める。水たまりの中に、白い空が広がった。喫茶店の窓には、通りを歩く人影がぼんやり映っている。
時間が過ぎていることに、透子はようやく気づいた。
鞄の中でスマートフォンが震えた。
取り出すと、母からのメッセージだった。
――遅くなる?
時計を見る。
思っていたより遅い。
透子は短く返信した。
――もう帰る。
スマートフォンをしまうと、急に現実に戻された気がした。
帰らなければならない。
夕食があって、宿題があって、明日も学校がある。美術部もある。県高校美術展の展示はまだ続いていて、自分の受賞作は白い壁にかかったままだ。
魔法などという言葉を聞いたあとでも、日常はそのまま続いている。
透子は、蒼を見た。
「今日は、帰る」
「うん」
蒼は頷いた。
あっさりしていた。
引き止めるでも、さらに説明するでもない。彼にとっては、ここで終わっても構わない会話なのかもしれない。
透子は少しだけ、置いていかれたような気持ちになった。
自分はこんなに揺さぶられているのに、蒼は静かなままだ。
「その……」
言いかけて、透子は止まった。
何を言うつもりだったのか、自分でもわからない。
また見せて。 もっと教えて。 魔法のことを。 絵のことを。 あなたのことを。
どれも違う気がした。
透子は、布に隠されたおばあさんの絵を見た。
光は、まだそこにあった。
魔法なのだと言われた。
それで落胆した。
でも、落胆したからといって、もう見たくないわけではなかった。
むしろ、見たい。
魔法という答えでは片づけられない何かが、まだ蒼の絵には残っている気がした。あの子どもの似顔絵は、魔具を使っていないと言っていた。それでも光った。なら、そこには技法でも魔法でもない、別のものがあるのではないか。
透子は自分の中で、言葉を選んだ。
「明日も」
蒼が顔を上げる。
「明日も来る」
言ってから、少し強引だったと思った。
約束を取り付けるというより、宣言に近い。
蒼は目を瞬かせた。
驚いていた。
それが少しだけおかしくて、透子はほんのわずかに肩の力を抜いた。
「だめ?」
「だめではないけど」
「なら来る」
「僕がここにいるとは限らないよ」
「じゃあ、いるかもしれない時間を教えて」
蒼は困ったように笑った。
「放課後くらいなら、たぶん」
「たぶん?」
「天気による」
「雨なら?」
「雨なら、描けない」
「じゃあ、晴れか曇りなら」
「……いると思う」
「わかった」
透子は頷いた。
蒼はまだ少し驚いた顔をしていたが、やがて小さく言った。
「三崎さんは、変わってるね」
「湊くんに言われたくない」
「それはそうか」
蒼は軽く笑った。
その笑いは、親子連れに向けていたものよりも少しだけ近かった。けれど、まだ距離はある。海辺の広場で偶然会っただけの二人。その距離のまま、ほんの少しだけ、明日の約束が置かれた。
透子は鞄の肩紐を持ち直した。
「じゃあ」
「うん。また」
また。
その言葉が、思ったより自然に聞こえた。
透子は商店街の方へ歩き出した。
数歩進んで、振り返りそうになったが、やめた。振り返ったら、布の下のおばあさんの絵をもう一度見たくなる。蒼の筆を、金属ケースを、スケッチブックを見たくなる。そしてきっと、また帰れなくなる。
石畳を抜け、商店街へ戻る。
夕方の光が、アーケードの曇った屋根を白くしていた。店先の風鈴が鳴る。魚屋の前では、店主が濡れた床をホースで流している。水がタイルを伝い、側溝へ消えていく。
透子は歩きながら、自分の手を見る。
何も持っていない手。
魔法の筆も、魔法の絵の具もない。あるのは、鉛筆の跡が残る指と、何度も絵を描いてきた手だけだ。
魔法なら、仕方ない。
さっき自分はそう言った。
それは本音だった。
自分が欲しかったものが、努力や観察や技法では手に入らないものなのだとしたら、諦めるしかない。そう思った。思おうとした。
けれど、商店街を歩くうちに、その諦めは少しずつ形を変えていった。
蒼の絵を、もっと見たい。
魔法の正体を暴きたいからではない。 魔法を自分も使えるようになりたいからでもない。
彼が、何を見ているのか知りたかった。
道端の石に悲しみを見た理由。 親子の時間を船で残した理由。 おばあさんの横顔を、あんなふうに光らせた理由。
魔法だという説明だけでは足りなかった。
たとえ本当に魔法だったとしても、筆を取ったのは蒼だ。 石を選んだのも、線を引いたのも、色を置いたのも、あの白を輪郭の外に残したのも、蒼だった。
なら、そこにはまだ、彼自身の絵があるはずだった。
透子は足を止めた。
商店街の出口から、遠くの空が見えた。雲の切れ間が広がり、海の方が明るくなっている。梅雨明けは近いのかもしれない。湿った風の中に、ほんの少しだけ夏の匂いが混ざっていた。
透子は、昨日展示室で見た海の絵を思い出した。
あの光の理由を知りたかった。
今も、知りたい。
けれどその理由は、魔法という言葉だけでは終わらない気がした。
透子は再び歩き出した。
鞄の中には、使い慣れたスケッチブックと鉛筆が入っている。今日は結局、一枚も描かなかった。けれど、白い紙の前で固まっていた昨日の夜とは、少しだけ違う。
描ける気がしたわけではない。
答えを見つけたわけでもない。
ただ、明日また、あの絵を見ることができる。
そう思うと、胸の奥に残っていた落胆の中に、小さな熱が混ざった。
魔法そのものよりも。
透子は、蒼の絵をもっと見たいと思っていた。
翌日の放課後、空は朝から重かった。
雨は降っていない。けれど雲は低く、校舎の窓から見える街は、薄い灰色の膜をかぶっているようだった。梅雨明け前の空気は水分を含みすぎていて、教室の床も、机の天板も、少しだけ湿っている気がした。
透子は、授業中ずっと窓の外を見ないようにしていた。
見れば、昨日の広場を思い出すからだ。
石畳。 布で半分隠されたおばあさんの絵。 赤い丸、青い三角、黄色がかった四角。 そして、蒼の静かな声。
魔法なんだ。
その言葉は、一晩経ってもまだ現実味を持たなかった。
けれど、まったくの冗談として片づけることもできなかった。赤い丸を見たときの懐かしさは、眠る前にも思い出した。青い三角の焦りは、朝、目覚ましの音を聞いた瞬間に胸の奥で少しだけ蘇った。四角の諦めは、制服のボタンを留めるとき、指先に残っていた。
何かがおかしい。
そう思う。
でも、それを「おかしい」と言い切るには、あの光はあまりにも確かだった。
放課後、美術室へ行くかどうか、透子は迷った。
いつもなら何も考えずに向かう場所だ。スケッチブックを開き、課題の続きを描き、必要なら由衣に助言する。榊に声をかけられれば返事をする。そういう日常の流れがある。
けれど今日は、美術室へ行っても描ける気がしなかった。
白い紙の前に座れば、きっと昨日の赤い丸を思い出す。自分の絵に光がないことを、もう一度確認するだけになる。
透子は鞄を持って、教室を出た。
廊下の窓から、校庭の隅の紫陽花が見えた。雨を待っているような、雨に疲れているような色だった。青も紫も、雲の下では沈んでいる。下駄箱で靴を履き替えるとき、由衣に声をかけられた。
「透子、今日部活来ないの?」
「うん。ちょっと用事」
「展示?」
「違う」
「そっか。また明日ね」
「うん」
由衣は深く聞かなかった。
その気軽さに少しだけ救われながら、透子は校門を出た。
昨日と同じ道を歩く。
駅前とは反対側へ曲がり、古い商店街へ向かう。濡れてはいないのに、道の端には昨日の雨の名残がまだ残っていた。側溝のふたの隙間から、湿った匂いが上がってくる。パン屋の前を通ると、バターと砂糖の甘い匂いがした。魚屋では店主が発泡スチロールの箱を片づけていて、氷がざらざらと音を立てている。
透子は、歩きながら何度も自分に言い訳をした。
魔法を信じたわけではない。 ただ、確認しに行くだけ。 昨日見たものが本当にあったのか。 蒼の絵が、もう一度同じように見えるのか。
それだけだ。
そう思おうとした。
けれど、坂道に差しかかるころには、その言い訳は少しずつ崩れていた。
本当は、蒼の絵を見たかった。
昨日、帰り道で認めたことを、もう一度認めるしかなかった。魔法という言葉にはまだ抵抗がある。あの筆や絵の具が何なのかもわからない。蒼自身のことも、ほとんど知らない。
それでも、彼が何を見るのかを見たかった。
坂を下ると、昨日の広場が見えた。
石畳の広場。花壇。錆びたベンチ。喫茶店の白い壁。低い掲示板。建物の隙間から覗く港。
だが、蒼はいなかった。
透子は足を止めた。
広場には、昨日の折りたたみ椅子も、木箱も、手書きの札もない。喫茶店の前に自転車が一台停まっているだけだった。花壇の土は黒く湿っていて、マリーゴールドの花びらに小さな虫が乗っていた。
いない。
それだけのことなのに、胸の中に小さな空白ができた。
昨日、蒼は「天気による」と言っていた。今日は雨ではないが、晴れてもいない。だから来なかったのかもしれない。あるいは、時間が早すぎたのかもしれない。そもそも、昨日の約束は約束と呼べるほどのものではなかった。
透子は広場の中央まで歩き、周囲を見回した。
誰かに聞くのも変だと思った。
路上で絵を描いていた少年を知りませんか。 魔法の絵の具を持っていた人です。
そんなことを言えるはずがない。
帰ろうかと思った。
そのとき、喫茶店のドアが開いた。
中から出てきたのは、昨日見た少年ではなく、白髪交じりの女性だった。年齢は五十代後半くらいだろうか。白いシャツに、紺色のエプロン。手には小さな盆を持っている。盆の上には、店の外に置くための砂糖壺のようなものが乗っていた。
女性は透子を見ると、少しだけ目を細めた。
「あら」
透子は反射的に会釈した。
「こんにちは」
「蒼くんに用事?」
名前が出た。
透子は少し驚いたが、できるだけ表情に出さないようにした。
「……はい。昨日、ここで絵を描いていたので」
「今日は風が重いから、外には出てないわよ」
「風が、重い?」
女性は空を見上げた。
「降りそうで降らない日は、紙が落ち着かないんだって」
その言い方は、どこか蒼に似ていた。変なことを言っているのに、当たり前のように口にする。
「もしよかったら、奥にいると思うけど」
「奥?」
「アトリエ。ここの裏手」
透子は喫茶店の横を見た。建物の脇に、細い路地がある。昨日は気づかなかった。石段が数段あり、その先に古い木戸が見える。木戸の向こうは坂の下へ続いているようだった。
女性は盆を小さなテーブルに置き、路地の方を指した。
「白い建物の二階。海が見えるところ。勝手に入ると怒られるかもしれないけど、蒼くん、人を追い返すのは下手だから」
透子は戸惑った。
「いいんですか」
「会う約束をしてたんでしょう?」
「約束というか……私が勝手に来るって言っただけです」
「あの子、そういうのでも覚えてるわよ」
女性は少し笑った。
「私は白瀬佳乃。あのアトリエの管理をしてるの。蒼くんのことも、少しだけ預かってる」
少しだけ預かっている。
その言葉は不思議だったが、透子は深く聞かなかった。
「三崎透子です」
「三崎さんね。行ってみたら。たぶん、いるから」
透子はもう一度会釈し、路地へ向かった。
喫茶店の横の石段は、雨のあとで少し滑りやすくなっていた。壁には蔦が這い、細い葉の先に水滴が残っている。路地は狭く、建物と建物の間を抜ける風が、湿った潮の匂いを運んできた。
木戸を押すと、ぎい、と小さな音がした。
その先には、坂の途中に建つ古い白い建物があった。
一階は倉庫のように見える。錆びたシャッターと、使われていない木箱。外階段が二階へ続いていて、手すりの塗装はところどころ剥げていた。建物の向こう側には、海が見えた。曇り空の下の海は青ではなく、鈍い銀色をしている。港の堤防と、小さな船の影が遠くにあった。
二階の窓が開いていた。
白いカーテンが、湿った風にゆっくり揺れている。
透子は外階段を上がった。
上がるたびに、港の音が近づく。波が堤防に当たる音。ロープが柱に擦れる音。遠くの船のエンジン。そこに、かすかな絵の具の匂いが混ざった。
扉の前で、透子は一度立ち止まった。
ノックをする。
返事はすぐにはなかった。
もう一度、少し強めに叩く。
「はい」
中から蒼の声がした。
扉が開く。
蒼は、昨日と同じような白いシャツを着ていた。袖をまくり、片手に鉛筆を持っている。髪は少し乱れていて、額に細い影を落としていた。
透子を見て、彼は目を瞬かせた。
「本当に来た」
「来るって言ったから」
「うん。言ってた」
「いないかと思った」
「外にはいなかったね」
「紙が落ち着かないから?」
蒼は少しだけ不思議そうにしてから、苦笑した。
「佳乃さんに会ったんだ」
「喫茶店の人?」
「うん」
「アトリエの管理をしてるって」
「そう」
蒼は扉を少し広げた。
「入る?」
透子は中を見た。
小さなアトリエだった。
広いとは言えない。けれど天井が高く、海側の窓が大きいので、狭さは感じなかった。床は古い木で、ところどころ絵の具の跡が染み込んでいる。壁際には棚があり、スケッチブック、木箱、空き瓶、古い画集が雑然と並んでいた。窓際には作業机。机の上には水入れ、鉛筆、筆、布、いくつかの紙片。
部屋の中央にはイーゼルが一台立っている。
そこには、描きかけの絵が置かれていた。
透子は、すぐにそれへ視線を奪われた。
港の絵だった。
窓から見える景色を描いているのだろう。曇った海、堤防、船、低い倉庫、空の白さ。鉛筆と薄い水彩で描かれていて、まだ完成していない。線は軽く、色も控えめだ。
そして、光はなかった。
少なくとも、透子にはそう見えた。
昨日の絵とは違う。
おばあさんの肖像にも、石の絵にも、図形にもあったあの揺らぎが、この港の絵にはない。普通の絵だった。
いや、普通という言い方は雑かもしれない。
悪くない絵だ。空の重さや、海の鈍い光の捉え方は丁寧だった。港の倉庫の形も、船の位置も、自然に収まっている。まだ粗い部分はあるが、練習としては十分だ。
ただ、昨日のような不思議さはない。
透子が絵を見つめていると、蒼は少しだけ気まずそうに言った。
「それは、普通に描いてる」
「普通に?」
「昨日見せた道具は使ってない」
透子は部屋の中へ入った。
絵の具の匂いが近くなる。水と紙と木の匂い。窓から入る潮風が、それを薄く広げている。カーテンが揺れ、床に白い影を落とした。
「使わないの?」
「普段はね」
「どうして」
透子は、港の絵から蒼へ視線を移した。
「使えば、もっと……」
言いかけて止まる。
もっと、何だろう。
もっと人を惹きつける。 もっと光る。 もっと心を動かす。
どれも正しい気がした。
蒼は、透子が言葉を選んでいるのを見て、静かに続きを引き取った。
「もっといい絵になる?」
「……少なくとも、昨日の絵みたいになるんでしょう」
「なると思う」
「なら、どうして使わないの」
蒼は机の上に鉛筆を置いた。
それから、棚の上の木箱に目を向ける。昨日見た古い筆と金属ケースは、その中に入っているのだろう。箱の蓋は閉じられていた。
「魔具で描いた絵は、自分の絵じゃない気がするから」
透子は黙った。
自分の絵じゃない。
その言葉は、思ったよりも深く刺さった。
「魔具って、昨日の筆と絵の具?」
「うん。そう呼んでる」
「魔法の道具だから、魔具」
「そう」
「それで描くと、自分の絵じゃなくなるの?」
「完全にそうとは言えない。でも、そう感じる」
蒼はイーゼルの前に立ち、描きかけの港の絵を見た。
「魔法の筆は、描くものに存在感を与える。生きているものなら、そこにいる感じが強くなる。石みたいなものでも、重さとか、手触りとか、そういうものが出る。僕が気づいていないところまで、筆が拾うことがある」
「自動で動くってこと?」
「少し違う。手は僕が動かしてる。でも、どの線がいいか、筆の方が知っているみたいな感じになる」
透子は昨日の石の絵を思い出した。
蒼の手は確かに動いていた。だが、どこかで筆に導かれているように見えた。あの印象は間違っていなかったのだ。
「絵の具は?」
「感情を入れる」
蒼は短く言った。
透子は眉を寄せた。
「入れる?」
「描いているときの気持ちとか、描く対象に向けた思いとか。そういうものが、色に混ざる。見る人は、それを感じる」
「だから、赤い丸から懐かしさがした」
「たぶん」
「青い三角は焦り」
「うん」
「四角は諦め」
蒼は少しだけ目を細めた。
「そう見えたんだ」
「違った?」
「いや。だいたい合ってる」
透子は、背筋に小さな震えが走るのを感じた。
昨日、自分が感じたものは、やはり偶然ではなかった。
蒼は机の上の布を手に取り、指先で小さく畳んだ。
「でも、強く使いすぎると、僕の意図を超える」
「意図を超える?」
「描こうとした以上のものが入る。僕が隠しておきたいことまで、絵に出る。見る人が、僕の思っていたのとは違うものを受け取ることもある」
「それは、普通の絵でもあるんじゃない」
「あると思う」
蒼は頷いた。
「でも魔具だと、それが強すぎる。たとえば、悲しいと思って描いたら、悲しみを表現した絵じゃなくて、悲しみそのものに近くなる。見る人が、ただ悲しい絵だと思うだけじゃなくて、本当に悲しくなる」
透子は石の絵を思い出した。
道端の小さな石。 青い影。 輪郭の外に置かれた白。 理由のつかない悲しさ。
あれは、美術的な表現ではなかった。蒼の言う通り、悲しみそのものが紙の上に薄く残っていたのかもしれない。
「便利そうだけど」
透子は言った。
蒼は少しだけ笑った。
「そう思う?」
「少なくとも、絵を描く人なら欲しがると思う」
「三崎さんも?」
透子はすぐに答えなかった。
昨日なら、たぶん欲しいと思った。
人の心を動かす絵が描けるなら。自分の絵に足りないものを、その道具が補ってくれるなら。そう思ったかもしれない。
でも今、蒼の説明を聞いていると、簡単には言えなかった。
自分の意図を超える道具。 隠しておきたいものまで絵に出る道具。 悲しみを、本当に悲しみとして人に渡してしまう道具。
それは、怖い。
「わからない」
透子は言った。
「使ってみたい気もする。でも、使いたくない気もする」
「それくらいが普通だと思う」
「湊くんは、使いたくない方が強い?」
「うん」
蒼は、描きかけの港の絵へ向き直った。
「僕は、自分の手で描きたい。どの線も、どの色も、自分で選んだと思いたい。たとえ下手でも、届かなくても」
「でも、昨日の子どもの絵は、魔具を使ってないのに光ってた」
透子は言った。
蒼の肩がわずかに動いた。
「そういうこともあるって言ってたよね」
「うん」
「思い入れが強いと、残るって」
「……そう」
「でも、あの親子とは初対面でしょ」
「初対面でも、描いている間に少し近くなることはある。会話を聞いたり、表情を見たり、仕草を覚えたりすると、その人の時間に触れるから」
蒼は窓の外を見た。
港の水面は、曇り空を映して鈍く揺れている。
「そういうとき、たまに残る。魔具を使わなくても。ほんの少しだけ」
「それも嫌なの?」
蒼は答えなかった。
それが答えだった。
透子は少し考えた。
「だから、知らない人を描くって言ったの」
昨日の広場で蒼が言った言葉。
知らない人を描く練習。
その意味が、少しだけわかった気がした。
「思い入れが強くならないように?」
「うん」
「知らない人なら、魔法が混ざらないから?」
「混ざりにくい」
「それで路上で描いてるの」
「練習にもなるし」
蒼は軽く付け足したが、透子にはその言葉の方が後づけに聞こえた。
彼は、魔法を避けるために絵を描いている。
魔法使いなのに。
透子は、その矛盾を少し痛ましく感じた。
「変なの」
言ってから、きつい言い方だったかと思った。
だが蒼は怒らなかった。
「そうだね」
「魔法があるのに、使いたくないなんて」
「三崎さんは、絵が上手いのに、自分の絵が嫌なんじゃないの」
透子は息を止めた。
蒼は、こちらを見ていなかった。
何気なく言ったのではない。けれど、責めるような声でもなかった。ただ、昨日と今日の透子の様子から、そう見えたことを口にしただけのようだった。
透子は、すぐには返事をしなかった。
部屋の中を、海風が通る。カーテンが膨らみ、机の上の紙片が一枚、少しだけ動いた。蒼がそれを押さえる。その指先には、鉛筆の黒が薄くついている。
「嫌、というか」
透子はゆっくり言った。
「意味がない気がする」
「意味?」
「褒められる絵は描ける。賞に入る絵も、たぶん描ける。どう描けば評価されるかも、ある程度わかる」
口にしながら、嫌な言い方だと思った。
自信過剰に聞こえる。けれど、そういうことではない。透子にとってそれは誇りではなく、むしろ重荷だった。
「でも、それだけ。私は、他の人の絵を見れば、どう描いたのかわかる。なぜその色を選んだのか、どこで迷ったのか、何を見せたかったのか。真似もできる」
「すごいね」
「すごくない」
反射的に言った。
蒼は黙った。
「すごくないよ。真似できるだけだから。自分の中から出てきたものじゃない。誰かの描き方を借りて、うまく見えるように組み立ててるだけ」
透子は、鞄の肩紐を握った。
「自分の絵を見ても、わかる。どこで何を狙ったのか。どの線が人に褒められると思って引いた線なのか。どの色が、寂しそうに見えるように置いた色なのか」
窓の外の海が、視界の端で鈍く揺れていた。
「だから、空っぽに見える」
言ってしまった。
思ったより簡単に。
誰にもはっきりとは言わなかったことだった。先生にも、由衣にも、母にも。自分には才能がないと曖昧に思うことはあっても、その理由をここまで言葉にしたことはなかった。
蒼は、すぐに慰めなかった。
それがありがたかった。
うまいよ、と言われたら、たぶん透子は黙るしかなかった。才能があるよ、と言われたら、きっと笑って流した。そんな言葉は、何度も聞いたことがある。そしてそのたびに、少しずつ自分の絵から遠ざかる気がしていた。
蒼はしばらく考えたあと、言った。
「見てもいい?」
「何を」
「三崎さんの絵」
透子は、反射的に鞄を押さえた。
スケッチブックは入っている。いつも持ち歩いているものだ。課題の下描き、街のスケッチ、展示室の絵を真似した海辺の坂道、描きかけて消した跡。見せられないものではない。
むしろ、他人に見せることには慣れている。
美術部では、互いに絵を見せ合う。先生にも提出する。コンクールにも出す。展示されれば不特定多数の人に見られる。
それなのに、蒼に見せることには妙な抵抗があった。
彼には、光が見える。
いや、蒼は魔法を使う側で、透子の絵に何が見えるのかはわからない。けれど、自分の絵が空っぽだと見抜かれそうで怖かった。
自分でわかっていることを、他人の目で確認されるのが怖い。
「見ても、面白くないと思う」
「面白いかどうかは、見てから決める」
「上手いだけだよ」
「それも見てから決める」
透子は少しだけ睨んだ。
「湊くん、意外と強引だね」
「三崎さんほどじゃない」
そう返されて、言葉に詰まった。
確かに昨日、自分はかなり強引だった。おばあさんの絵を見せてほしいと言い、石の絵を問い詰め、魔法を否定し、翌日も来ると宣言した。
透子はため息をつき、鞄からスケッチブックを取り出した。
「笑わないで」
「笑わない」
「変な慰めもいらない」
「わかった」
「あと、褒めなくていい」
「それは約束できない」
「どうして」
「いいと思ったら、言う」
透子は返事をせず、スケッチブックを渡した。
蒼は両手で受け取った。
その持ち方が丁寧だったので、透子は少しだけ視線を逸らした。
蒼は最初のページを開く。
古い校舎の廊下。 美術室の窓辺の石膏像。 雨の日の傘立て。 商店街の八百屋。 自室の机。 母の手元。 そして、『雨上がりの教室』のための構図案。
蒼は、一枚ずつゆっくり見た。
速くも遅くもない。絵を流し見しているわけではないが、細部に必要以上に留まることもしない。ページをめくるたびに、少しだけ目が動く。線を追い、余白を見て、色の置き方を確かめている。
透子は、その沈黙が落ち着かなかった。
普段なら、自分の絵を見られるのは平気だ。むしろ、相手がどこを見るかを観察していることもある。賞に出した絵なら、相手の反応はだいたい予想できる。どこで「きれい」と言うか、どこで「すごい」と言うか。
だが蒼は何も言わない。
ただ、丁寧に見ている。
その静けさが、透子には怖かった。
「何か言えば」
我慢できずに言うと、蒼は顔を上げた。
「見てる途中」
「見ながらでも言えるでしょ」
「言えるけど、まだ言わない」
「どうして」
「最初に言う言葉を間違えそうだから」
透子は黙った。
蒼はまたスケッチブックへ視線を戻した。
やがて、展示室の海の絵を真似たページで手が止まった。
透子の胸が硬くなる。
海辺の坂道。
あの絵を真似して描いた習作。構図は整っている。色も悪くない。だが、光はない。ただの模写。透子自身が一番見たくないページだった。
「これは?」
蒼が聞いた。
「展示で見た絵を、思い出して描いた」
「昨日言ってた海の絵?」
「うん」
「うまいね」
「褒めなくていいって言った」
「褒めてるというより、事実として」
「それが嫌なの」
蒼は透子を見た。
透子は自分の言葉が刺々しいことを自覚していたが、取り消さなかった。
「うまいだけだから」
蒼はもう一度、そのページを見た。
「うまいだけ、という感じはする」
透子は、胸の奥が一瞬で冷えるのを感じた。
自分で言った言葉だった。だが他人に言われると、思った以上に痛かった。
蒼はすぐに続けた。
「でも、悪い意味だけじゃないよ」
「どういう意味」
「これだけ正確に覚えて、短い時間で形にできるのは、すごいと思う。線も色も、よく見てる。何をどう置けば絵として成立するか、ちゃんとわかってる」
「それは、技術でしょ」
「技術は大事だよ」
「でも、それだけじゃ駄目」
声が少し震えた。
蒼は否定しなかった。
「うん」
その「うん」が、また痛かった。
でも、不思議と腹は立たなかった。蒼は透子の絵を貶しているのではない。透子自身が感じていることを、雑に慰めず、正面から見ている。
「この絵」
蒼は言った。
「描きながら、何を見てた?」
「何を?」
「元の絵」
「覚えてる範囲で」
「それはわかる。そうじゃなくて、何を見ようとして描いたのか」
透子はページを見下ろした。
坂道。海。空。石段。草。
「光」
「うん」
「元の絵にあった光を、描きたかった」
「描けた?」
「描けてない」
「どうして?」
「わからないから」
透子は唇を結んだ。
「どこから来てる光なのか、わからなかった。構図も色も真似できるのに、あの眩しさだけが入らない」
「それを描こうとしてる感じはある」
「でも描けてない」
「うん」
蒼は正直だった。
透子は少しだけ笑いそうになった。
ひどい、と思う気持ちもあった。けれど、下手な慰めよりずっとましだった。
蒼はさらにページをめくった。
自分の受賞作のための構図案で手を止める。教室、花瓶、雨上がりの窓。いくつものパターンが小さく描かれている。
「これ、出した絵?」
「その下描き」
「完成作は?」
「今、展示されてる」
「見てみたい」
「見なくていい」
「どうして」
「たぶん、今見てる下描きでだいたいわかるから」
蒼はそのページをじっと見た。
「きれいな絵になったと思う」
「なったよ」
「寂しい絵?」
「そう見えるように描いた」
「そう見せたかった?」
「そう見せれば、評価されると思った」
自分で言って、透子は小さく息を吐いた。
最低な言い方だと思った。
しかし蒼は、やはり責めなかった。
「それも、絵の描き方のひとつだと思う」
「でも、私の絵じゃない」
蒼はページから顔を上げた。
透子も、自分の言葉に気づいていた。
私の絵じゃない。
それは、先ほど蒼が魔具について言った言葉とほとんど同じだった。
魔具で描いた絵は、自分の絵じゃない気がする。
透子は、自分の胸の奥にあった感情が、蒼のそれと少し似ていることを理解した。
彼は魔法が混ざることを恐れている。 透子は他人の技法が混ざることを恐れている。
彼は、筆が勝手に線を選ぶことが嫌だ。 透子は、自分が評価される線を選べてしまうことが嫌だ。
どちらも、絵は描ける。
なのに、自分の絵だと思えない。
「似てるね」
蒼がぽつりと言った。
透子は少しだけ視線を落とした。
「嫌な似方」
「うん」
「そこは否定してよ」
「否定した方がよかった?」
「別に」
透子は窓の外を見た。
海は相変わらず曇っている。だが雲の切れ間が少しだけ広がり、水面の一部に白い光が落ちていた。その光は、昨日の展示室で見た絵の光とは違う。現実の光。誰にでも見える光。
けれどそれを見て、透子は少しだけ描きたいと思った。
うまく描けるかどうかではなく。
あの白が、どこへ消えるのかを見ていたいと思った。
蒼はスケッチブックを閉じ、透子に返した。
「ありがとう」
「何か、わかった?」
「三崎さんは、すごく絵がうまい」
「それは聞き飽きた」
「それと、たぶん、すごく怖がってる」
透子は返しかけた言葉を飲み込んだ。
「何を」
「自分の気持ちを絵に入れること」
部屋の中に、海風が通った。
机の上の水入れの表面が、かすかに揺れる。
透子は反論しようとした。
怖がっていない。 入れる気持ちがないだけ。 自分にはそんなものがないだけ。
だが、どの言葉もすぐに出てこなかった。
蒼は続けなかった。
そこが、彼の不思議なところだった。核心に触れるようなことを言うのに、追い詰めようとはしない。透子が自分で見るまで、そこで止まっている。
「湊くんは」
透子は言った。
「何を怖がってるの」
蒼は窓の外を見た。
「自分の気持ちが、勝手に絵に残ること」
「それは、悪いことなの」
「わからない。でも、怖い」
「どうして」
「誰かに見せたくないものまで、見せてしまう気がするから」
その声は、とても静かだった。
透子はそれ以上聞けなかった。
部屋の中に、しばらく沈黙が落ちた。
気まずい沈黙ではなかった。何かを言わなければいけないのに言えない、というより、それぞれが自分の中に落ちた言葉を見ている時間だった。
窓の外で、船の汽笛が短く鳴った。
蒼が先に口を開いた。
「三崎さん、技法を教えてくれない?」
「私が?」
「うん」
「湊くんに?」
「僕に」
「魔法があるのに?」
「だから、普通の描き方を練習してる」
透子は、イーゼルの港の絵を見た。
光はない。魔法の煌めきもない。
けれど、蒼が自分の手で描こうとしている絵だった。
「何を教えればいいの」
「形の取り方とか、構図とか、色の混ぜ方とか。三崎さんがわかること」
「それなら、教えられると思う」
「代わりに」
蒼は少し迷うように言った。
「僕は、心を込めることについて、一緒に考える」
「教えてくれるんじゃないの」
「教えられるほど、僕もわかってない」
「魔法使いなのに」
「魔法使いでも、わからないことは多い」
透子は少しだけ笑った。
その笑いは、昨日から張り詰めていたものが緩んだような、小さなものだった。
「頼りないね」
「うん」
「でも、正直ではある」
「それは、たぶん」
蒼も少し笑った。
距離が縮まった、というほどではない。
まだ互いに知らないことの方が多い。蒼は自分の来た場所についてほとんど話していない。透子も、自分の絵の痛みをすべて話したわけではない。魔法という言葉も、まだ透子の中では完全に形になっていない。
それでも、ふたりは同じ部屋にいた。
海の見える小さなアトリエで、同じ絵を見ていた。
「明日も来ていい?」
透子は言った。
今度は、昨日より少しだけ自然に言えた。
蒼は頷いた。
「うん。雨じゃなければ外にいるかもしれない。雨なら、ここ」
「紙が落ち着かないから?」
「それもある」
「他にも?」
「雨の音が大きいと、絵がそっちに引っ張られる」
「また変なこと言う」
「たぶん、三崎さんもそのうちわかる」
「わかりたくないような、わかりたいような」
「それくらいが普通だと思う」
同じことをまた言われて、透子は少しだけ肩をすくめた。
帰る前に、透子はイーゼルの港の絵をもう一度見た。
「ここ」
思わず指を差す。
蒼が近づいた。
「倉庫の屋根の角度、少し違う。窓から見るともっと浅い。あと、堤防の線をこのまま水平にすると、海が止まりすぎる。少しだけ手前の影を斜めに入れた方が、奥行きが出ると思う」
蒼は絵と窓の外を見比べた。
「本当だ」
「船は悪くない。でも、こっちの影が濃すぎる。そこに目が行くから、空の重さが弱くなる」
「なるほど」
「あと、空を全部同じ灰色にしない方がいい。雲の下だけ少し青を残すと、海とつながる」
言いながら、透子は少しだけ自分の声が変わっていることに気づいた。
分析している。
いつもと同じように、絵を見て、直すべきところを言っている。
けれど今は、それが少しだけ嫌ではなかった。
蒼は真剣に聞いている。透子の言葉を、ただ褒め言葉として消費しない。どう直すか、自分の手で確かめようとしている。
技法にも、意味はある。
今さらそんな当たり前のことを、透子は小さく思った。
「すごいね」
蒼が言った。
「またそれ」
「いや、今のは本当に助かった」
「じゃあ、明日までに直してみて」
「宿題?」
「練習」
蒼は少し困ったように、けれど楽しそうに笑った。
「わかった」
透子は鞄を持った。
扉のところで振り返ると、蒼はもうイーゼルの前に立っていた。鉛筆を持ち、窓の外と絵を見比べている。その横顔には、昨日の魔具を使ったときのような深い沈みはない。けれど、静かな集中があった。
魔法の光はない。
それでも彼は描いている。
透子はその姿を少しだけ見て、扉を開けた。
外階段に出ると、海風が正面から吹いた。雲の切れ間はさっきより広がっていて、港の水面に細い光が伸びている。階段の手すりは少し湿っていたが、もう雨の匂いは薄くなっていた。
坂を下りる前に、透子はアトリエの窓を見上げた。
白いカーテンが揺れている。窓の奥で、蒼の影が少し動いた。絵を直しているのだろう。
透子は鞄の中のスケッチブックに触れた。
自分の絵は、まだ空っぽかもしれない。 蒼の絵も、彼自身にとってはまだ自分のものではないのかもしれない。
でも、練習ならできる。
技法を教えることならできる。 心を込めることを、一緒に考えることならできるかもしれない。
答えではなく、約束のようなものが、胸の中に残っていた。
透子は坂道を上り始めた。
湿った石畳の上で、夕方の光が少しだけ揺れていた。