『アトリエ ~海の見えるアトリエ~』

第六章 閉じ込められた記憶

 相馬千枝の絵のことは、商店街の中で静かに広まっていった。

 噂というほど派手なものではなかった。  誰かが大きな声で言いふらしたわけでもない。

 ただ、八百屋の店先で野菜を選びながら、誰かが小さく話す。

「あの絵、見せてもらった?」

「相馬さんの?」

「そう。ご主人の絵。写真とは違うのに、ああ、相馬さんの旦那さんだってわかるのよ」

 魚屋の店主が、発泡スチロールの箱に氷を足しながら言う。

「蒼のやつ、ああいう絵も描けるんだな」

 喫茶店の常連が、コーヒーを飲みながら佳乃に尋ねる。

「うちの犬も描いてもらえるかな。去年死んだんだけどさ、写真はあるのに、どうも違うんだよ」

 その言葉は、海からの湿った風に乗るように、少しずつアトリエへ届いた。

 千枝が絵を抱えて帰った日から、数日が経っていた。

 空はまだ梅雨明けを待っている。雨は降ったりやんだりを繰り返し、晴れ間が出てもすぐに雲が戻る。けれど、光の色は少しずつ夏に近づいていた。濡れた石畳に落ちる白さが、前より強い。商店街の軒先に吊るされた風鈴の音も、湿った空気の中で少しだけ高く響くようになった。

 透子は、放課後になると、相変わらず海の見えるアトリエへ向かっていた。

 ただ、以前と違うことがあった。

 アトリエに着くと、そこには蒼と透子だけではない日が増えた。

 最初に来たのは、喫茶店の常連の男だった。  五十代くらいの、日に焼けた顔の人で、手には古い首輪を持っていた。

「犬なんだ」

 彼は照れくさそうに言った。

「変かな。人間じゃないのに」

 蒼は首を横に振った。

「変じゃないです」

 男は少し安心したように笑い、首輪を机に置いた。赤い革の首輪だった。金具のところが擦れて、少し黒ずんでいる。

「名前はマル。丸くもないのに、子どもがそうつけてね。散歩が嫌いな犬でさ。犬なのに。雨の日なんか、玄関から一歩も出ない」

 男は、死んだ犬の話をした。

 散歩が嫌いだったこと。  雷が鳴ると洗面所に逃げ込んだこと。  家族が喧嘩をすると、なぜか真ん中に座り込んだこと。  年を取ってからは、耳が遠くなって、呼んでも振り向かないのに、冷蔵庫を開ける音だけは聞こえたこと。

 透子はその話を聞きながら、犬の姿を頭の中に組み立てていった。

 写真はあった。

 けれど、その写真のマルは、ただ座っているだけだった。黒と白の雑種犬。やや太った体。眠そうな目。写真としてはよく撮れているが、男の語るマルとは少し違う。

「玄関のところがいいと思う」

 透子は言った。

 蒼が顔を上げる。

「散歩が嫌いだったなら、外にいる姿より、玄関で踏ん張っているところ。首輪はついてるけど、行きたくなくて座り込んでる感じ」

 男は、ぱっと顔を明るくした。

「そう、それだ。あいつ、そういう顔するんだよ。絶対行かないぞって顔」

 蒼はその言葉を聞き、魔具を使った。

 そのときも、彼は迷っていた。木箱を開ける前に、少しだけ手を止めた。けれど千枝のときほど長くは迷わなかった。

 描かれたマルは、写真ほど整ってはいなかった。

 耳の角度も、毛並みも、写真と見比べれば違うところはいくつもある。けれど、玄関で座り込み、首輪をつけたまま外を拒むその犬は、確かにその男の話の中にいたマルだった。

 男は絵を見て、笑った。

 涙をこらえながら笑った。

「これ、怒ってる顔だ」

 そう言って、指で目元を拭いた。

「うん。こいつ、こういう顔だった」

 透子は、その横で胸が少し温かくなるのを感じていた。

 蒼は、まだ複雑そうな顔をしていた。だが、男が絵を抱えて喫茶店へ戻っていく後ろ姿を見送ったあと、小さく息を吐いただけだった。

 その息には、以前より少しだけ安堵が混ざっていた。

 次に来たのは、商店街の端で小さな喫茶店を閉めることになった老夫婦だった。

 佳乃の店とは別の、昔からある店だった。店主の膝が悪くなり、階段の上り下りがつらくなったため、今月いっぱいで閉店するらしい。

「写真はね、たくさん撮ったんです」

 妻の方が言った。

「でも、写真だときれいすぎるの。あの店、そんなにきれいじゃなかったでしょう」

 透子は、その言葉に少し笑いそうになった。

 老夫婦の店は、確かにきれいな店ではなかった。椅子の革はところどころ破れ、カウンターの端は日焼けして色が変わっている。壁のメニュー表は手書きで、何度も値段を書き直した跡がある。

 けれど、そこには長い時間があった。

 透子は閉店前の店を見に行き、メモを取った。

 常連客がいつも座る窓際の席。  コーヒー染みの残るカウンター。  柱に貼られた古い映画の半券。  店主が磨き続けた銀色のポット。  妻が毎朝、最初に開ける小さな窓。

「店そのものを正面から描くより」

 透子はアトリエで蒼に言った。

「開店前のカウンターがいいと思う。まだ客はいないけど、これから誰かが来る感じ。コーヒーカップを二つ置いて、一つは常連用。窓を少し開けて、外の商店街の光を入れる」

 蒼は頷き、老夫婦の話を聞きながら描いた。

 魔法の絵の具は、店の匂いまで色に変えるようだった。

 焦げたコーヒー豆。古い木。雨の日に濡れた傘を持ち込んだ客の湿気。昼下がりに常連が新聞をめくる音。

 絵の中の店は、写真のようには正確でなかった。けれど、老夫婦はその絵を見て、しばらく黙った。

「まだ、明日も開けるみたいね」

 妻が言った。

 店主は何も言わず、絵の中のカウンターを見ていた。

 気に入ったものほど、何も言わない人もいる。

 透子は、千枝の言葉を思い出した。

 また別の日には、引っ越す友人との思い出を描いてほしいという中学生の女の子が来た。

 彼女は泣いてはいなかったが、早口だった。

「別に、一生会えないわけじゃないんです。連絡もできるし、夏休みには遊びに行くって言ってるし。でも、同じ帰り道じゃなくなるのが嫌で」

 その子は、友人と毎日通っていた坂道の話をした。

 部活帰りに買ったアイス。  半分だけ見える海。  雨の日に二人で入った一つの傘。  試験前に単語帳を見ながら歩いたこと。  くだらないことで笑いすぎて、坂の途中で座り込んだこと。

 透子はその話を聞きながら、どの場面を絵にするべきか迷った。

 笑い合う二人を描けば、わかりやすい。  けれど、その子が本当に失うのは、友人そのものではない。

 同じ帰り道。

「坂道だけを描くのがいいかもしれない」

 透子は言った。

「二人はいなくても、坂の途中に食べ終わったアイスの棒とか、濡れた傘の跡とか、単語帳の紙切れとかを入れる。そこを一緒に歩いた時間が残ってる感じ」

 中学生は少し驚いた顔をした。

「二人を描かないんですか」

「描いてほしいなら描けると思う。でも、話を聞いていると、あなたが残したいのは、友だちの顔だけじゃなくて、その道の感じだと思った」

 少女は黙って考え、それから小さく頷いた。

「そうかも」

 蒼が描いた坂道は、誰もいない絵になった。

 夕方の光。  濡れた路面。  石垣の下に落ちたアイスの棒。  電柱に貼られた古い広告。  海へ続く細い空。

 そこには人がいないのに、誰かがさっきまで笑っていた気配があった。

 中学生は絵を見て、初めて泣いた。

「これ、帰り道だ」

 彼女は言った。

「私たちの」

 透子はその言葉を聞いて、胸の奥が静かに満たされるのを感じた。

 自分が描いたわけではない。

 線を引いたのは蒼だ。魔具を使ったのも蒼だ。透子はただ、依頼人の話を聞き、絵に必要なものを整理しただけだった。

 けれど、それでも自分がその絵に関われたことが、嬉しかった。

 それは、賞を取ったときの嬉しさとは違った。

 周囲に褒められるからではない。  評価されたからでもない。  誰かの記憶が、少しだけ形になる瞬間に立ち会えたからだった。

 透子は、そのことを認めざるを得なかった。

 自分の絵は、まだ描けていない。

 思い出しながら描く練習は、相変わらずうまくいかなかった。アトリエの隅でスケッチブックを開いても、透子の手はすぐに構図を探し、色の計画を立て、見栄えのいい方向へ動いてしまう。

 幼いころの公園も、母の手も、美術室も、どれも絵としては整う。

 でも、そこに自分の心が入ったとは思えなかった。

 それでも、依頼人の話を聞くときだけは、少し違った。

 透子は、絵そのものではなく、言葉の奥にある形を探していた。誰が何を残したいのか。顔なのか、場所なのか、仕草なのか、匂いなのか。依頼人自身も気づいていない中心を、会話の中から見つける。

 それは、他人の絵を読む力に似ていた。

 線や色ではなく、記憶を読む。

 透子は、蒼にそれを伝えたことはなかった。けれど蒼は、いつの間にか透子の方を見るようになっていた。

 依頼人が話し終える。  蒼が少し考える。  そして透子を見る。

 透子は、必要だと思ったことを言う。

「正面からじゃなくて、後ろ姿の方がいいと思う」

「その猫は寝ているところじゃなくて、窓の外を見ているところ」

「家族全員を描くより、食卓に残った四つの湯飲みの方が伝わるかもしれない」

「その子が大切にしているのは、お母さんの顔じゃなくて、お母さんが結んでくれた髪の感触だと思う」

 蒼はそれを聞いて、絵にする。

 魔法の筆は、対象に存在感を与えた。  魔法の絵の具は、依頼人の言葉に残る温度を色へ変えた。

 そして透子は、その間に立っていた。

 依頼人の記憶と、蒼の絵の間。  魔法と技法の間。  言葉と絵の間。

 最初はぎこちなかった共同作業が、少しずつ自然になっていく。

 蒼は、以前ほど魔具を拒まなくなった。

 もちろん、完全に受け入れたわけではない。描き終えたあと、彼はいつも疲れた顔をする。木箱を閉じるときには、まだ少し迷いがある。自分の手を見つめることもあった。

 それでも、依頼人が絵を受け取り、涙ぐみ、笑い、言葉を失うたびに、蒼の中の何かが少しずつ揺れているようだった。

「こういう使い方なら」

 千枝の絵を描いた日、蒼はそう言った。

 その言葉は、何度か繰り返された。

 亡くなった犬の絵を描いたあと。  閉店する喫茶店の絵を描いたあと。  友人との帰り道を描いたあと。

 彼ははっきりとは言わなかったが、透子にはわかった。

 魔具は、誰かを過去に閉じ込めるものではないのかもしれない。  誰かが前へ進むために、失いたくないものを少しだけ支えるものなのかもしれない。

 そう思い始めている。

 透子もまた、そう思いたかった。

 魔法の絵は美しかった。  そして、誰かを救っているように見えた。

 少なくとも、そのときは。

 その日、アトリエには朝から強い光が入っていた。

 前日の夜に降った雨は上がり、空には久しぶりに青が広がっている。梅雨明けはまだ発表されていないが、街はすでに夏の入口に立っているようだった。海からの風は湿っているのに、光だけが先に季節を越えてしまったように眩しい。

 透子は学校のあと、美術室へは寄らずに坂道を下った。

 商店街では、八百屋の前に並んだトマトが赤く光っていた。魚屋の店主が、氷の上に鯵を並べている。喫茶店の窓には、青い空が映っていた。

 アトリエへ向かうと、外階段の下に見知らぬ男が立っていた。

 三十代後半から四十代くらいだろうか。背は高いが、肩が落ちていて、実際より細く見える。白いシャツに黒いズボン。会社員のような格好だが、ネクタイはしていない。手には茶色い封筒を持っている。

 男は階段を上がるでもなく、帰るでもなく、ただそこに立っていた。

 透子が近づくと、男はこちらを見た。

 目の下に濃い影があった。

「ここで、絵を描いてもらえると聞いたんですが」

 男が言った。

 声は丁寧だった。だが、その丁寧さがひどく乾いている。

「蒼くんにですか」

 透子が尋ねると、男は少しだけ反応した。

「湊さん、ですか」

「はい。上にいると思います」

 男は外階段を見上げた。

 その顔に、ためらいが浮かぶ。

 透子は一瞬、声をかけるか迷った。依頼人はこれまでも何人か来た。誰もが、少なからず何かを抱えていた。けれど、この男の空気は少し違った。

 悲しみがある。

 それはわかる。

 だが、悲しみの形が硬すぎる。長い時間をかけて固まったというより、まだ生々しいものを無理やり押し固めて持ってきたような危うさがあった。

 外階段の上から、扉が開く音がした。

 蒼が顔を出した。

「あ、三崎さん」

 それから男に気づき、表情を変える。

「依頼の方ですか」

 男は少しぎこちなく頭を下げた。

「佐伯と申します」

 アトリエに入ると、部屋の明るさが少しだけ強すぎるように感じた。

 窓から入る夏の光が、机の上の白い紙を眩しく照らしている。水入れの水面が細かく揺れ、壁に光を映していた。いつもなら心地よいはずの海風も、その日はどこか落ち着かない。

 佐伯は椅子に座り、封筒を膝の上に置いた。

 蒼は向かいに座る。透子は机の横に立った。

「どんな絵をご希望ですか」

 蒼が尋ねる。

 佐伯は封筒を開けた。

 中から、何枚かの写真が出てくる。

 小さな女の子の写真だった。

 五歳か六歳くらいだろう。  白いワンピースを着て笑っている写真。  公園のブランコに乗っている写真。  誕生日ケーキの前で、ろうそくを吹き消そうとしている写真。  海辺で砂を握っている写真。

 写真の中の少女は、どれもよく笑っていた。

 透子は、胸の奥が少し冷えるのを感じた。

 佐伯は一枚の写真を指で押さえた。

「娘です」

 蒼は何も言わなかった。

 透子も黙っていた。

「名前は、陽菜といいます」

 佐伯の声は平らだった。

「去年、亡くなりました」

 部屋の中で、窓のカーテンが揺れた。

 海の光が、写真の表面を白く反射させる。少女の笑顔が、一瞬見えなくなった。

 佐伯は写真を一枚ずつ机に並べていく。

「絵を描いていただけると聞きました。亡くなった人の絵も、描いたことがあると」

 蒼の手が、机の下で少し動いた。

 透子はそれに気づいた。

 千枝の絵のことだ。

 おそらく、その話がどこかで佐伯へ届いたのだろう。相馬さんの夫の絵。写真とは違うのに、その人だとわかる絵。失ったものを、もう一度見せてくれる絵。

 その噂が、ここまで来た。

「写真の模写なら、他の方でもできると思います」

 蒼は慎重に言った。

「僕にできることは、限られています」

「写真のような絵が欲しいわけではありません」

 佐伯はすぐに言った。

 その早さに、透子はわずかな違和感を覚えた。

 これまでの依頼人たちは、言葉を探しながら話していた。何を残したいのか、自分でもはっきりしていないことが多かった。透子が問いかけ、蒼が聞き、少しずつ中心を探していった。

 佐伯は違った。

 すでに答えを持ってきているように見えた。

「陽菜を描いてほしいんです」

 佐伯は言った。

「私が覚えている、あの子を」

 言葉だけなら、千枝と同じだった。

 だが、響きが違った。

 千枝は、遠くなりかけた記憶をもう一度支えようとしていた。  佐伯は、何かを引き戻そうとしているようだった。

「どんなお子さんでしたか」

 透子は尋ねた。

 佐伯は、写真を見た。

 その目が、少しだけ揺れる。

「よく笑う子でした」

 彼は言った。

「人見知りで、最初は私の後ろに隠れるんです。でも、一度慣れるとずっと喋っている。幼稚園であったことや、友だちのことや、先生の口癖まで」

 佐伯の声に、温度が入る。

「絵を描くのが好きでした。丸ばかり描くんです。顔も丸、花も丸、太陽も丸。犬を描いても丸になる」

 透子は、机の上の写真を見た。

 その中の一枚に、クレヨンを持った陽菜が写っていた。画用紙には、確かに丸いものがたくさん描かれている。赤、黄色、青。何を描いたのかはわからないが、楽しそうだった。

「歌も好きでした。覚えたての歌を、間違えたまま何度も歌って」

 佐伯は、わずかに笑った。

 けれど、その笑みはすぐに消えた。

「最後の日も、歌っていました」

 空気が変わった。

 透子は、思わず蒼を見る。

 蒼の表情は硬くなっていた。

 佐伯は写真を見たまま続けた。

「熱があって、苦しかったはずなのに。病院のベッドで、小さな声で歌っていました。途中で歌詞を間違えて、笑って……」

 そこで言葉が切れる。

 佐伯は口元を押さえた。  しかし涙は出なかった。

 出ないほどに、何かが乾いているように見えた。

「もう一度」

 佐伯は言った。

「もう一度、その顔を見たいんです」

 蒼は、机の上の写真から目を離さなかった。

「佐伯さん」

 彼は静かに言った。

「絵は、亡くなった人を戻すものではありません」

「わかっています」

 佐伯はすぐに答えた。

「わかっています。そんなことは、もちろん」

 言葉は丁寧だった。だが、早すぎた。

 透子の胸に、小さな不安が生まれる。

 わかっている、と言う人ほど、わかっていないことがある。

 そう思った。

「でも、絵を見ることで思い出せることはあるでしょう」

 佐伯は蒼を見た。

「相馬さんのご主人の絵のように。喫茶店の絵のように。皆さん、救われたと聞きました」

 救われた。

 その言葉が、透子の中で少し重く響いた。

 確かに、これまでの依頼人たちは救われたように見えた。千枝も、マルの飼い主も、喫茶店の老夫婦も、引っ越す友人との帰り道を描いてもらった少女も。絵は、彼らの記憶を支えた。

 だからこそ、透子自身も魔具の意味を肯定し始めていた。

 でも。

 佐伯の「救われたい」は、少し違う。

 透子はそう感じた。

 しかし、その違いをまだ言葉にできなかった。

「陽菜ちゃんが好きだったものは、何ですか」

 透子はゆっくり尋ねた。

 佐伯はすぐに答える。

「黄色い傘です。雨の日に差すのが好きで。晴れていても持って出ようとしたことがありました。それから、白いワンピース。写真にもあります。あと、貝殻。海で拾って、瓶に集めていました」

「どんな顔を描いてほしいんですか」

「笑っている顔です」

「写真にあるような?」

「写真より、もっと」

 佐伯の声が、少し強くなった。

「もっと、本当に笑っている顔を」

 透子は黙った。

 写真の中の陽菜は、十分に笑っている。誕生日の写真も、公園の写真も、海辺の写真も。けれど佐伯は、もっとと言う。

 もっと笑っている顔。  本当に笑っている顔。

 その言葉の奥に、透子は危ういものを感じた。

 記憶を取り戻したいのではなく、記憶を塗り替えたいのではないか。

 そう思いかけて、透子はすぐに自分を責めた。

 娘を亡くした父親だ。

 その悲しみを、外から勝手に測ってはいけない。

 佐伯は悪い人ではない。  ただ、悲しんでいる。  深く、どうしようもなく。

 だから、救われたいのだ。

 蒼は、木箱を見ていなかった。

 その視線は、机の上の写真と佐伯の顔の間で止まっている。

 明らかにためらっていた。

「今日は、一度お話だけで」

 蒼が言いかける。

 佐伯の手が、写真の上で強く握られた。

「お願いします」

 その声に、透子は胸を押された。

「時間は、かかっても構いません。お金も、できる限り用意します。無理を言っていることはわかっています。でも」

 佐伯は顔を上げた。

 目の奥に、乾いた熱があった。

「もう一度、あの子に会いたいんです」

 その言葉は、部屋の中にまっすぐ落ちた。

 千枝の「忘れたくない」とは違う。  飼い主の「覚えていたい」とも違う。  老夫婦の「残したい」とも違う。

 会いたい。

 それは、絵に託すにはあまりにも強い願いだった。

 蒼は、断ろうとしていた。

 透子にはわかった。

 彼の手が、机の端で止まっている。木箱には触れない。写真にも触れない。ただ、佐伯の言葉を受け止めながら、拒むための言葉を探している。

 そのとき、透子の中で、これまでの依頼人たちの顔が浮かんだ。

 千枝が絵を見て静かに泣いたこと。  マルの飼い主が笑いながら涙を拭いたこと。  喫茶店の妻が「まだ明日も開けるみたいね」と言ったこと。  中学生が「私たちの帰り道だ」と泣いたこと。

 絵は、誰かを救える。

 その実感が、透子の中にあった。

 目の前の佐伯も、救われたいのだ。

 なら。

「描いてみよう」

 透子は言った。

 声が、自分のものではないように聞こえた。

 蒼が、ゆっくり透子を見た。

 その目は、驚いていた。

 そして、どこか責めているようにも見えた。

 透子はその視線を受け止めながら、もう一度言いそうになった。

 大丈夫。  きっと、救える。

 けれど、その言葉だけは喉の奥で止まった。

 アトリエの中に、長い沈黙が落ちた。

 窓の外では、夏に近い海が白く光っていた。


 描いてみよう。

 自分の口から出たその言葉が、アトリエの中に落ちたあと、透子はしばらく身動きができなかった。

 佐伯は、救いを求めている。  蒼は、断ろうとしている。  そして自分は、その間に立って、蒼の背中を押した。

 それが本当に正しかったのか、すぐにはわからなかった。

 けれど、佐伯の「もう一度、あの子に会いたいんです」という声が、透子の中に残っていた。乾いて、擦れて、今にも割れそうな声。あれを聞いてしまったら、何もしないで帰すことなどできない気がした。

 蒼は、透子を見ていた。

 責めるような目ではなかった。  けれど、軽く頷くこともできない目だった。

 長い沈黙のあと、蒼は机の上に並べられた写真へ視線を戻した。

「佐伯さん」

「はい」

「描く前に、もう少しだけ話を聞かせてください」

 佐伯の表情に、かすかな安堵が浮かんだ。

 それは、依頼を受けてもらえたというより、ようやく娘のことを話す許可を得た人の顔だった。

「はい。何でも」

 蒼はすぐに木箱へ手を伸ばさなかった。写真を一枚ずつ眺め、少女の顔を確かめる。白いワンピース。黄色い傘。誕生日ケーキ。公園のブランコ。クレヨンを握った小さな手。

 陽菜。

 写真の中の少女は、どれも笑っていた。

 透子はその笑顔を見ながら、胸の奥に違和感を抱いていた。

 笑顔が多すぎる。

 それは悪いことではない。親が子どもの笑顔を写真に残すのは自然なことだ。けれど、机の上に並べられた写真のすべてが、佐伯の願いの方向を指しているように見えた。

 笑っている陽菜。  元気な陽菜。  明るい陽菜。  失われる前の陽菜。

 それ以外の顔は、ここにはない。

「陽菜ちゃんは、どんな子でしたか」

 透子が尋ねた。

 前にも聞いた問いだった。けれど、今度はもっと丁寧に聞く必要があると思った。

 佐伯は写真を見下ろした。

「よく笑う子でした」

 やはり、最初にその言葉が出た。

「人見知りで、初めての人には私の後ろに隠れるんです。でも、少し慣れると、ずっと喋っている。幼稚園であったことを、最初から最後まで全部話すんです。誰が泣いたとか、先生がピアノを間違えたとか、給食のにんじんが大きかったとか」

 佐伯の声は、話し始めると少しだけ柔らかくなった。

「声が高くて。眠いときだけ、少しかすれるんです。『おとうさん』って呼ぶときも、普段は早口なのに、眠いときは『おとーさん』って伸びる」

 蒼は黙って聞いている。

 透子は、佐伯の言葉を拾った。

 笑顔。  早口。  眠いときの声。  黄色い傘。  丸い絵。  歌。

「歌は、どんな歌を?」

 透子が尋ねる。

「幼稚園で習った歌です。季節の歌とか、手遊びの歌とか。でも陽菜は歌詞をよく間違えていました。間違えたまま覚えて、自信満々に歌うんです」

 佐伯は一枚の写真を指差した。

 公園のブランコに乗る陽菜。  片手を上げている。口が開いているので、何かを歌っている途中のようにも見える。

「このときも、歌っていました。ブランコを漕ぎながら。危ないからやめなさいって言ったら、歌ってない、って。口が動いているのに」

 佐伯は小さく笑った。

 その笑いは、すぐに沈んだ。

「最後の日も、歌っていました」

 また、その言葉。

 透子の指先が少し冷えた。

 佐伯は写真を見つめたまま、続けた。

「病院で。熱が高くて、ほとんど眠っていたのに。目を開けて、私に気づいて、少し笑って。それで、小さな声で歌い始めました」

 蒼の手が、机の端を掴んだ。

「最後に交わした言葉は?」

 蒼が聞いた。

 その声は慎重だった。

 佐伯は、すぐには答えなかった。

 唇を結び、写真の一枚を見つめる。

 海辺で砂を握っている陽菜の写真だった。黄色いバケツが横に置かれ、ワンピースの裾には砂がついている。髪は風で乱れているが、本人は楽しそうに笑っていた。

「『おとうさん、かさ』」

 佐伯は言った。

「そう言いました」

「傘?」

「黄色い傘です。お気に入りで。病室には持っていけなかったんですが、家にあるのを気にしていて。雨じゃないのに、傘、って」

 佐伯の手が震えた。

「私は、今度持ってくるよ、と言いました。明日持ってくる、と」

 部屋の中に、海風が入った。

 カーテンが揺れる。

「でも、明日はありませんでした」

 その声は、ほとんど平らだった。

 平らすぎた。

 透子は胸が苦しくなるのを感じた。

 佐伯の後悔は、そこにある。

 黄色い傘を持ってきてあげられなかったこと。最後に頼まれたことを、叶えられなかったこと。だから彼は、黄色い傘を持った笑顔の陽菜を欲しがっているのかもしれない。

 やり直すために。

「絵には、傘を入れたいですか」

 透子が尋ねる。

「はい」

 佐伯はすぐに答えた。

「黄色い傘を持って、笑っているところを」

「病室ではなく?」

 佐伯の表情が、少しだけ硬くなった。

「病室は、描かなくていいです」

「でも、最後に交わした言葉は病室で――」

「描かなくていいです」

 声が少し強くなった。

 透子は口を閉じた。

 蒼が、静かに佐伯を見ている。

 佐伯は、すぐに自分の声の強さに気づいたようだった。目を伏せ、深く息を吐く。

「すみません」

「いえ」

「病室の顔は、もう見たくないんです」

 佐伯は言った。

「苦しそうな顔も、眠っている顔も、細くなった声も。そういうものは、もう十分覚えています。忘れたいわけじゃありません。でも、あの子はそんな子じゃなかった」

 透子は、何も言えなかった。

「陽菜は、笑っている子でした。傘を持って、歌って、丸ばかり描いて。そういう子だったんです」

 言葉は正しい。

 けれど、何かがずれている。

 そのずれを、透子はまだ止められなかった。

 蒼はしばらく黙っていた。

「佐伯さん」

 彼は言った。

「その絵を見たとき、何を思い出したいですか」

「陽菜です」

「どんな陽菜ちゃんを」

「元気だったころの」

「最後の日ではなく?」

 佐伯は、机の下で手を握った。

「最後の日のことも、忘れられません」

 声が震える。

「でも、最後があの子の全部じゃないでしょう」

 それは、痛切な言葉だった。

 透子は、その痛みを否定できなかった。

 確かに、最後の苦しそうな顔だけが、その子のすべてであっていいはずがない。父親が笑っている娘を思い出したいと思うのは、自然なことだ。正しいことだ。救われるべきことだ。

 だから透子は、蒼がまだ迷っていることに焦りを覚えた。

 描けばいい。

 そう思った。

 千枝のときも、マルのときも、喫茶店のときも、絵は人を支えた。今回だって、きっとそうできる。佐伯の悲しみは強い。だからこそ、絵が必要なのだ。

 透子は、そう考えた。

 そう考えようとした。

 蒼は木箱を見た。

 その視線に、ためらいが濃く残っている。

「僕は」

 蒼はゆっくり言った。

「絵で、亡くなった人に会わせることはできません」

「わかっています」

 佐伯はまた、すぐに言った。

 蒼の眉がわずかに動く。

「本当に、わかっていますか」

 その問いは、少しだけ鋭かった。

 佐伯は顔を上げた。

 目の下の影が、アトリエの明るさの中で濃く見える。

「わかっています」

 今度は、少し遅れて答えた。

「でも、思い出すことはできますよね」

 蒼は返事をしなかった。

「絵を見て、あの子の声を思い出したいんです。笑い方を。傘を持って走ってくるところを。私を呼ぶ声を」

 佐伯の声が、少しずつ熱を帯びていく。

「それだけです。それだけでいいんです」

 それだけ。

 けれど、その「それだけ」は、あまりにも大きい。

 透子はそう思った。  それでも、口にしなかった。

 蒼は長い沈黙のあと、木箱へ手を伸ばした。

 透子は、ほっとした。

 その感情が胸に浮かんだ瞬間、自分でも少し驚いた。

 ほっとした。

 つまり、自分は描いてほしかったのだ。

 佐伯を救えると信じたかったから。  蒼の魔具には、その力があると思い始めていたから。  そして、自分が「描いてみよう」と言ったことを、間違いにしたくなかったから。

 木箱の金具が外れる。

 かちり、と音がした。

 蓋が開くと、魔法の筆と絵の具が現れた。

 その瞬間、透子には、これまでと違う光が見えた。

 強い。

 筆の軸から、細く鋭い光が滲む。金属ケースの絵の具は、まだ水を含んでいないのに、表面が静かに揺れている。色の輪郭が曖昧になり、互いに混ざり合おうとしているように見えた。

 千枝のときとは違う。

 あのときの光は、深く、静かだった。水底に沈む灯りのようだった。

 今は違う。

 光が、早すぎる。

 まだ描き始めてもいないのに、絵の具が先へ行こうとしている。

 透子は胸の奥に小さな不安を覚えた。

 けれど佐伯の顔を見ると、その不安はすぐに押し込められた。

 彼は木箱の中の道具を見ていない。  ただ、机に並べられた娘の写真を見ている。

 その目が、痛いほど真剣だった。

 蒼は筆を手に取った。

 いつもより慎重だった。  いや、慎重というより、抵抗しているようにも見えた。

「佐伯さん」

 蒼は言った。

「描いている間、陽菜ちゃんのことを話してください。ただし、思い出せることだけでいいです。作らなくていい。きれいにしようとしなくていい」

 佐伯は少しだけ眉を寄せた。

「作る?」

「絵にするために、都合よく話さなくていいということです」

「……はい」

「楽しいことだけでなくても構いません」

 佐伯は口を閉じた。

 その沈黙が、透子には少し不穏に感じられた。

 蒼は紙を出した。

 白い厚手の紙。  机の中央に置かれたその白さが、今日は妙に眩しかった。

 佐伯は、陽菜の写真を見ながら話し始めた。

「朝が苦手でした」

 最初の言葉は、少し意外だった。

「起こしても、布団の中で丸まって、あと五分って言うんです。五分が何かも、たぶんわかっていなかったのに。私が布団をめくると怒る。妻が起こすと、少しだけ機嫌がいい」

 蒼の筆が水に触れる。

 水面が揺れた。

「朝ごはんは、パンの耳を残しました。耳だけきれいに。ジャムは苺じゃないと嫌がる。ブルーベリーを出したら、紫の顔になるから嫌だって」

 透子は、少しだけ笑いそうになった。

 普通の話だった。

 だからこそ、胸に来る。

「絵を描くのが好きで。丸ばかり描くんです。何を描いても丸。私の顔も丸。妻の顔も丸。自分の顔も丸。家も、犬も、雲も、全部丸」

 佐伯の声に、少しだけ明るさが戻る。

「でも、本人はちゃんと描き分けているつもりなんです。これはおとうさん。これはおかあさん。これはうさぎ。全部丸なのに」

 蒼は、最初の色を作った。

 黄色。

 陽菜の傘の色だろうと透子は思った。

 しかし蒼は、すぐにその黄色を紙に置かなかった。そこへ白を混ぜ、ほんの少しだけ青を加える。鮮やかな黄色ではなく、曇りの日に開いた傘の内側のような、柔らかい黄色。

 筆が紙に触れる。

 最初の線は、丸だった。

 透子は息を止めた。

 子どもの描く丸のように、少し歪んだ丸。けれど、それは陽菜が描いた丸ではない。陽菜という子の世界の始まりのような丸だった。そこから、傘の輪郭が生まれた。

 黄色い傘。

 ただし、まだ人物は描かれていない。

 佐伯は話し続ける。

「傘が好きでした。雨の日は、玄関でずっと待っているんです。早く行こうって。雨の日に外へ出るのが好きで、水たまりを踏む。何度注意しても踏む」

 蒼の筆が、傘の下に小さな影を作る。

 水たまりの影。  足元の光。  跳ねた水の粒。

 透子には、その時点でもう絵の表面が光り始めているように見えた。

 早い。

 これまでの絵よりも、ずっと早い。

 千枝の夫の絵では、光は少しずつ深まっていった。依頼人の言葉に合わせて、線が積もり、色が沈み、記憶がゆっくり宿った。

 今は、佐伯の言葉が絵の具へ触れるたび、光が跳ねる。

 黄色。  白。  青。  赤。

 色が鮮やかすぎるほどに反応している。

 透子は蒼を見た。

 蒼の表情は硬い。

 筆を動かしているが、何度も止まりそうになっている。傘の線を引いたあと、少女の輪郭へ進もうとして、手が止まる。水を足し、色を薄め、もう一度写真を見る。佐伯の言葉を聞き、また筆を取る。

 迷っている。

 それでも描いている。

「笑顔は」

 蒼が言った。

 佐伯は、机の上の写真を一枚選んだ。

 誕生日ケーキの前の写真だった。陽菜が、ろうそくの火を吹き消そうとしている。頬が膨らみ、目が細くなっている。

「この顔が近いです。でも、もっと普通に笑っている顔がいい。ろうそくを吹く顔じゃなくて。私を見て笑っている顔」

「私を見て」

 蒼が繰り返す。

「はい」

 佐伯の声が少し強くなる。

「おとうさん、って呼ぶときの顔です。走ってきて、傘を持って、歌って、それで私を見上げる顔」

 透子は、その言葉を聞きながら、不安が少しずつ大きくなるのを感じた。

 佐伯が語る陽菜は、どんどん一つの理想へ向かっている。

 朝が苦手だったこと。パンの耳を残したこと。水たまりを踏んだこと。そういう具体的で少し困った記憶は、確かに彼女を生きた子どもとして立ち上がらせていた。

 けれど、絵に求める表情だけが、少しずつ現実から離れていく。

 私を見て笑っている顔。  走ってきて、呼ぶ顔。  元気だったころの顔。  もっと、本当に笑っている顔。

 蒼もそれを感じているのかもしれない。

 彼は少女の顔を描き始める前に、長く筆を止めた。

「佐伯さん」

 蒼が言った。

「陽菜ちゃんは、いつも笑っていましたか」

 佐伯の目が、少し揺れた。

「子どもですから、泣くこともありました」

「怒ることも?」

「ありました」

「お父さんに怒ったことは?」

 佐伯は一瞬、答えなかった。

「ありました」

「どんなことで?」

 佐伯は、机の上の写真から視線を外した。

「最後の前の日」

 声が低くなる。

「私は仕事で、病院に行くのが遅れました。妻から、陽菜が会いたがっていると連絡があったのに、どうしても抜けられなくて。夜になって行ったら、陽菜は怒っていました」

 蒼は筆を置いた。

 透子も息を止める。

「何と言いましたか」

「『おとうさん、おそい』と」

 佐伯は笑おうとした。  けれど、うまく笑えなかった。

「それだけです。たったそれだけ。でも、私は……」

 声が止まる。

 部屋の中に、波の音がかすかに届いた。

「謝ればよかった」

 佐伯は言った。

「その場で、ちゃんと。遅くなってごめんって。けれど私は、明日は早く来るよって言った。明日は黄色い傘も持ってくるって。そうしたら陽菜は、少し機嫌を直して、歌って……」

 佐伯の手が震えた。

「その明日が、なかった」

 透子は、何も言えなかった。

 その後悔は、あまりにも具体的だった。

 黄色い傘。  遅れた父親。  明日という約束。  そして、失われた明日。

 佐伯が笑顔の絵を求める理由が、痛いほどわかった。

 彼は、最後の「おとうさん、おそい」という声を、別の笑顔で覆いたいのだ。

 透子の中で、不安と同情が混ざった。

 危うい。

 そう思う。

 でも、救いたい。

 そうも思う。

 蒼は、ゆっくり筆を取った。

 その手は、少し震えていた。

 少女の顔が描かれ始める。

 最初に置かれたのは、頬の線だった。柔らかく、丸い線。次に、目。少し細められた、笑顔の目。口元。小さく開いて、何かを言いかけている。

 おとうさん。

 そう呼ぶ直前のような口元だった。

 透子には、絵から声が聞こえそうな気がした。

 実際には聞こえない。  もちろん、聞こえるはずがない。

 けれど、絵の表面の光が強すぎた。

 黄色い傘の輪郭から、少女の頬へ。頬から目元へ。目元から口元へ。光が細く走り、紙の中で結びついていく。まるで絵が、自分から完成へ向かっているようだった。

 蒼は、何度も筆を止めた。

 そのたびに佐伯が言葉を足す。

「髪は、ここで跳ねるんです。右側だけ」

 蒼が髪を描く。

「笑うと、左の頬に小さなくぼみができる」

 蒼が頬へ色を置く。

「歌うとき、少し顎が上がる」

 蒼が口元の角度を変える。

「傘を持つ手は、いつも両手でした。片手だと重いから」

 蒼が小さな手を描く。

 佐伯の言葉は、記憶だった。  だが、少しずつ願望も混ざっているように見えた。

 もっと笑って。  もっと元気に。  もっとこちらを見て。  もっと、戻ってきて。

 透子は、それに気づきながらも、止められなかった。

 絵は美しかった。

 圧倒的に。

 小さな少女が、黄色い傘を持って立っている。足元には水たまり。白いワンピースの裾が少し濡れている。髪は右側だけ跳ね、頬には小さなくぼみがある。口元は、歌の途中のように開いている。目は、絵を見る者をまっすぐ見上げている。

 おとうさん。

 その声が、紙の奥に閉じ込められているようだった。

 透子は、胸が苦しくなった。

 美しすぎる。

 そう思った。

 千枝の夫の絵には、老いも不器用さも、言葉にできない沈黙もあった。マルの絵には、散歩を嫌がる頑固さがあった。喫茶店の絵には、古びた椅子や傷ついたカウンターがあった。

 でも、この絵の陽菜は、あまりにも満ちていた。

 父親が見たいと願った笑顔を、すべて集めたような絵だった。

 蒼は最後に、傘の内側へ薄い光を置いた。

 その瞬間、絵の表面が強く輝いた。

 透子は思わず目を細めた。

 光が、紙の奥から溢れたように見えた。黄色い傘から、少女の顔へ。水たまりへ。白いワンピースへ。まるで晴れた雨上がりの日に、世界中の光がその子だけに集まったようだった。

 美しい。

 けれど、少し怖い。

 蒼は筆を置いた。

 顔色が悪かった。

「……できました」

 その声は掠れていた。

 佐伯は、しばらく動かなかった。

 彼は絵を見ていた。

 じっと。

 まばたきも忘れたように。

 そして、次の瞬間、椅子から崩れるように床へ膝をついた。

「陽菜」

 声が漏れた。

 低く、壊れたような声だった。

「陽菜……」

 佐伯は両手で顔を覆った。

 肩が震える。  声を殺そうとしても、抑えきれない嗚咽が漏れる。

 透子は立ち尽くした。

 佐伯は泣いていた。

 心から。

 今まで乾いていたものが、一気に溢れ出すように。

「ありがとうございます」

 彼は何度も言った。

「ありがとうございます。本当に、本当に……」

 蒼は何も言わなかった。

 ただ、絵と佐伯を見ていた。

 透子は胸の奥に熱いものを感じた。

 成功した。

 そう思った。

 佐伯は泣いている。  絵を見て、娘を思い出している。  ずっと凍りついていた悲しみが、ようやく流れ始めたのだ。

 だから、これでよかったのだ。

 そう思いたかった。

 蒼も、少しだけ表情を緩めたように見えた。

 完全な安堵ではない。疲労と不安は残っている。けれど佐伯が絵の前で泣き崩れ、何度も礼を言う姿を見て、その絵を否定することはできなかったのだろう。

 絵は、佐伯に届いた。

 その瞬間だけは、確かにそう見えた。

 佐伯は絵を持ち帰った。

 乾かすためにしばらく時間を置き、蒼が保護紙と台紙をつけると、彼はそれを両腕で抱えた。まるで、絵ではなく、本当に小さな子どもを抱くように。

「大切にします」

 彼は言った。

 声はまだ震えていた。

「本当に、ありがとうございました」

 透子は何も言えず、ただ頭を下げた。

 外階段を下りていく佐伯の背中は、来たときより少しだけ軽く見えた。

 少なくとも、そのときは。

 数日後、異変は静かに始まった。

 最初に気づいたのは、佳乃だった。

 その日、透子がアトリエへ行くと、佳乃が喫茶店の前で蒼と話していた。いつもの穏やかな顔ではなく、少し眉を寄せている。

「佐伯さんのことなんだけど」

 佳乃は透子にも気づき、声を落とした。

「昨日、店に来た人が言っていたの。最近、会社を休んでいるみたいだって」

 蒼の表情が硬くなる。

「体調が悪いんですか」

「そういう話ではなさそう。家からあまり出ていないらしいの」

 透子は胸騒ぎを覚えた。

「絵のせい、ですか」

 自分で言って、そんなはずはないと思いたかった。

 佳乃は否定しなかった。

「わからないわ。でも、少し気になるの」

 蒼はすぐに動こうとした。

 透子も一緒に行くと言った。

 佐伯の家は、商店街から少し離れた住宅地にあった。

 海から上がった坂の途中。古いアパートの二階。白い外壁はところどころ雨で黒ずみ、階段の手すりには錆が浮いている。通路には湿った洗濯物の匂いがあり、どこかの部屋からテレビの音が小さく漏れていた。

 蒼は佐伯の部屋の前で立ち止まり、インターホンを押した。

 返事はない。

 もう一度押す。

 しばらくして、中から足音がした。

 ドアが少しだけ開く。

 隙間から見えた佐伯の顔に、透子は息を飲んだ。

 目の下の影が、以前より濃い。頬がこけ、髭も伸びている。シャツはしわになっていて、髪も乱れていた。眠っていない人の顔だった。

「湊さん」

 佐伯は言った。

 声はかすれているが、どこか嬉しそうだった。

「三崎さんも」

「佐伯さん、大丈夫ですか」

 蒼が尋ねる。

「ええ。どうぞ」

 部屋に入った瞬間、空気の重さに透子は足を止めた。

 カーテンが閉まっている。

 昼間なのに、部屋は薄暗い。窓の隙間から細い光が入り、床に白い線を作っている。テーブルの上には、食べかけのパンと、冷めたコーヒーのカップ。流しには洗っていない皿がある。部屋の隅には、少女のおもちゃらしき箱が置かれていた。

 そして、正面の壁に、絵が掛けられていた。

 陽菜の絵。

 黄色い傘を持ち、白いワンピースで、こちらを見上げて笑っている。

 透子は、その絵を見た瞬間、背筋が冷えた。

 光っている。

 以前よりも、ずっと強く。

 アトリエで完成したときの光は、美しかった。強すぎると思ったが、それでもまだ絵の中に収まっていた。

 今は違う。

 絵の表面から、部屋全体へ光が滲んでいるように見えた。黄色い傘の光が、薄暗い部屋の中で不自然に明るい。少女の目元に、濡れたような輝きがある。水たまりの反射が、実際の光源とは関係なく揺れている。

 佐伯は絵の前へ行った。

「陽菜、湊さんたちが来てくれたよ」

 透子は、呼吸を忘れた。

 蒼の表情が凍った。

 佐伯は、ごく自然にそう言った。まるで、絵の中の娘に来客を知らせることが日常になっているように。

「佐伯さん」

 蒼の声は低い。

「寝ていますか」

「少しは」

「食事は」

「食べています」

 テーブルの上のパンは、ほとんど手がつけられていない。

 佐伯は絵を見上げた。

「この子、朝が苦手で。私が起きていないと怒るんです」

 笑っている。

 佐伯は笑っていた。

 けれど、その笑いは佐伯自身のものではなく、絵の中の陽菜に合わせて貼りつけられているようだった。

「毎朝、話しかけるんです。今日は何をしようかって。昨日は、傘を持って公園に行きたいと言っていました」

 透子は、足元が揺れるような感覚を覚えた。

 言っていました。

 佐伯は、そう言った。

「佐伯さん」

 透子は声を出した。

「絵が、何か言うんですか」

 佐伯は振り返った。

 少し困ったように笑う。

「声が聞こえるわけではありません」

 その答えに、透子は一瞬だけ安堵しかけた。

 しかし、佐伯の次の言葉で、その安堵は消えた。

「でも、わかるんです。見ていると」

 彼は絵へ視線を戻した。

「この子が何を言いたいのか。今日は機嫌がいいとか、少し寂しそうだとか。昨日は、歌っていました」

 部屋の中が、静かすぎた。

 外ではきっと、車も通っている。人も歩いている。海からの風もある。けれどこの部屋の中だけ、音が絵に吸い込まれているようだった。

 透子は陽菜の絵を見た。

 少女は笑っている。

 確かに、ただ笑っている。

 それなのに、見る角度によって表情が少し変わるように見えた。正面から見ると嬉しそうに、少し横から見ると甘えるように、下から見上げると寂しそうに。

 いや、変わってはいない。

 紙の上の絵だ。

 線も色も動いていない。

 それでも、変わったように見える。

 透子は、自分の目を疑った。

 これは魔法なのか。  それとも、佐伯の願望を自分まで見てしまっているのか。

 絵は、佐伯の記憶だけではなく、彼が望む陽菜の姿まで吸い込んでいるのではないか。

 そう思った瞬間、背中に冷たいものが走った。

 佐伯は絵の前に座った。

 床に直接座り、膝を抱えるようにして見上げている。その姿は、父親というより、迷子の子どものようだった。

「この子がいると、静かなんです」

 佐伯は言った。

「前は、家の中が空っぽで。音が全部消えていて。でも今は、陽菜がいる。朝起きたら、おはようと言える。夜になったら、おやすみと言える」

 その声には、救いがあった。

 それが恐ろしかった。

 佐伯は本当に救われているように見えた。  同時に、そこから戻れなくなっているようにも見えた。

 蒼は、絵を見つめていた。

 その顔は青ざめている。

「佐伯さん」

 蒼が言った。

「この絵は、陽菜ちゃん本人ではありません」

 佐伯は動かなかった。

「わかっています」

 また、その言葉。

 けれど今度は、ほとんど意味を持っていなかった。

「わかっています。でも、ここにいるんです」

「違います」

 蒼の声が少し強くなる。

 佐伯は、ゆっくり振り返った。

 その目には怒りはなかった。

 ただ、深い疲れと、絵を奪われることへの怯えがあった。

「湊さんが描いてくれたんです」

 佐伯は言った。

「あなたが、会わせてくれたんです」

 蒼は言葉を失った。

 透子は胸が締めつけられた。

 会わせてくれた。

 その言葉が、部屋の中で重く響く。

 蒼は、そうではないと言っていた。絵で亡くなった人に会わせることはできないと、何度も言っていた。透子もそれを聞いていた。

 それなのに、自分は描いてみようと言った。

 救えると思った。

 救いたかった。

 その善意が、今、目の前で別の形に変わっている。

 陽菜の絵が、ふいに明るくなった気がした。

 透子は息を飲む。

 少女の口元が、ほんの少しだけ深く笑ったように見えた。

 動いたわけではない。

 絵は絵のままだ。

 けれど、確かに今、微笑んだように見えた。

 それが魔法なのか。

 佐伯の願望が、絵を通して透子にまで流れ込んできたのか。

 それとも、透子自身が恐怖でそう見てしまっただけなのか。

 わからない。

 わからなかった。

 蒼が、一歩前へ出た。

 その声は、今まで聞いたことがないほど低かった。

「これは、違う」


 蒼の声は低かった。

 その一言で、薄暗い部屋の空気がわずかに震えたように感じた。

 佐伯は、絵の前に座ったまま振り返った。  痩せた頬、伸びかけた髭、血の気の薄い唇。目だけが妙に熱を持っていた。

「違う?」

 佐伯は繰り返した。

 その声は、怒りというよりも、意味のわからない言葉を聞かされた人のようだった。

「何がですか」

 蒼は絵を見ていた。

 黄色い傘を持った陽菜の絵。

 白いワンピース。  水たまり。  右側だけ跳ねた髪。  歌いかけるような口元。  こちらを見上げる笑顔。

 それは、やはり美しかった。

 美しすぎた。

 部屋の薄暗さの中で、その絵だけが不自然に明るい。窓のカーテンは閉じている。昼間の光は細くしか入らない。それなのに、黄色い傘の内側には、雨上がりの空がそのまま閉じ込められているようだった。

 透子には、その光が見えていた。

 絵の表面に滲む、強すぎる煌めき。

 千枝の夫の絵にあった光とは違う。  あれは、深く沈んでいた。  遠くを照らす、静かな灯りだった。

 陽菜の絵の光は、こちらへ手を伸ばしてくる。

 見ている者の胸の中へ入り込み、そこにある願望を探り当て、さらに明るくなろうとしている。そんなふうに感じられた。

 蒼は一歩、絵へ近づいた。

「魔法が強く残りすぎています」

 佐伯の表情が動いた。

「魔法?」

 その言葉に、透子ははっとした。

 蒼は以前、魔法のことは簡単に話さないと言っていた。感じ取れる人にだけ、必要な範囲で話していいのだと。佐伯が魔法を感じ取れる人かどうかはわからない。少なくとも、透子のように光が見えている様子はなかった。

 けれど今の蒼には、言葉を選ぶ余裕がなかったのかもしれない。

「この絵は、佐伯さんの記憶だけじゃなくて、願いまで引き寄せています」

 蒼は言った。

「このままだと、あなたはこの絵から離れられなくなる」

 佐伯は、しばらく蒼を見ていた。

 それから、小さく笑った。

「離れる必要がありますか」

 透子の喉が詰まった。

「ここに陽菜がいるんです」

「いません」

 蒼はすぐに言った。

 佐伯の顔から笑みが消えた。

 部屋の温度が下がったように感じた。

「この絵は、陽菜ちゃんではありません」

 蒼の声は震えていなかった。  けれど、苦しそうだった。

「僕が描いた絵です。佐伯さんの記憶と、願いを使って作った絵です。だから――」

「願いを使って?」

 佐伯が低く言った。

「それの何が悪いんですか」

 蒼は言葉を止めた。

「私は願ってはいけないんですか。娘にもう一度会いたいと。声を聞きたいと。笑ってほしいと。そう願ってはいけないんですか」

「いけないとは言っていません」

「なら、どうして奪おうとするんですか」

 佐伯は立ち上がった。

 足元がふらつく。  けれど彼は、絵の前に立ちはだかった。

 まるで、蒼と透子から絵を守るように。

「この子は帰ってきたんです」

「違います」

「あなたが描いたんでしょう!」

 佐伯の声が大きくなった。

 隣室のテレビの音が、一瞬小さくなったような気がした。

「あなたが、陽菜を描いてくれた。私に、もう一度会わせてくれた。なのに今度は違うと言うんですか。絵だと言うんですか。そんなこと、わかっています。わかっているに決まっている!」

 佐伯の息が乱れる。

 絵の中の陽菜は、変わらず笑っている。

 その笑顔だけが、部屋の中で明るすぎた。

「でも、ここにいるんです」

 佐伯は、絵を振り返った。

 声が急に小さくなった。

「この子を見ると、朝起きられるんです。夜、眠れなくても、話しかけられる。パンを食べなきゃって思える。今日は傘を持って行こうかって、そう思える」

 透子は、テーブルの上の食べかけのパンを見た。

 乾いた断面。  冷めたコーヒー。  手つかずの皿。

 食べなきゃと思える。

 でも、食べられてはいない。

「佐伯さん」

 透子は声を出した。

 彼はゆっくり透子を見た。

 その目を見た瞬間、透子は自分が何も言えないことを悟った。

 あなたは間違っている。  この絵は危ない。  前を向かなければいけない。

 そんな言葉を言える立場に、自分はいない。

 描いてみようと言ったのは透子だった。

 佐伯を救えると思った。  千枝たちが救われたように、この人も救われると思った。  自分がその悲しみを、少しは理解できるような気になっていた。

 でも違った。

 透子は、陽菜を失っていない。  最後の約束を果たせなかった父親ではない。  「明日」が消えた部屋で、何か月も呼吸してきたわけではない。

 絵の意図は読める。  言葉の奥にある願いも、少しは見つけられる。

 けれど、人の悲しみそのものは読めない。

 その当たり前のことが、今になって透子の胸に重く落ちてきた。

「僕が、魔法を抜きます」

 蒼が言った。

 佐伯が凍ったように動きを止めた。

「絵を消すわけではありません。ただ、強く残りすぎたものを弱めます。このままでは――」

「触るな」

 佐伯の声は、低く、鋭かった。

 蒼は動きを止める。

「触らないでください」

「佐伯さん」

「この子に触るな!」

 叫びだった。

 佐伯は絵を背にして、両腕を広げた。

 その姿は、父親が娘を庇っているようで、けれど実際には一枚の絵を守っているだけだった。

 透子は、そのことが苦しかった。

「あなたは、また奪うのか」

 佐伯の声が震えた。

「やっと、やっと会えたのに。やっと笑ってくれたのに」

 蒼は顔を歪めた。

「佐伯さん、これは――」

「この子を二度も奪うのか!」

 部屋の中が、静まり返った。

 その叫びは、怒りよりも悲鳴に近かった。

 佐伯は絵の前に立ったまま、肩で息をしている。  蒼は何も言えなかった。  透子も、ただ立ち尽くしていた。

 絵の中の陽菜は、笑っていた。

 雨上がりの黄色い傘を持って。  おとうさん、と呼ぶ直前の口元で。  こちらを見上げる目で。

 その目が、透子にはほんの少しだけ寂しそうに見えた。

 見えただけかもしれない。

 佐伯の願望が、部屋の空気を通して透子にまで流れ込んでいるのかもしれない。  魔法が、見る者の中から都合のいい陽菜を引き出しているのかもしれない。

 どちらにしても、危うかった。

 蒼は、ゆっくり一歩下がった。

 魔法を抜くことはできない。  少なくとも、力ずくでは。

 佐伯が守っているかぎり、それは彼にとって二度目の喪失になる。

 蒼は視線を落とした。

 その横顔を見て、透子は彼もまた傷ついていることに気づいた。

 蒼は知っていた。

 魔具が危ういことを。  人の心に触れることが、便利なことではないことを。  絵が人を救うこともあれば、閉じ込めることもあるかもしれないことを。

 それでも描いた。

 透子に促され、佐伯の願いを前にし、自分でも救えると思いたかったから。

 蒼だけが正しかったわけではない。  透子だけが間違っていたわけでもない。

 けれど、責任はそこにあった。

 佐伯が床に座り込んだ。

 絵の前に、力が抜けたように膝をつく。彼は振り返り、絵を見上げた。先ほどの怒りは急速にしぼみ、代わりに、深い疲労だけが残った。

「陽菜」

 彼は小さく呼んだ。

「ごめんな」

 その声を聞いたとき、蒼がゆっくり鞄を下ろした。

 透子は彼を見る。

「湊くん?」

 蒼は答えなかった。

 木箱ではない。

 魔法の筆も、魔法の絵の具も取り出さない。

 彼が取り出したのは、普通のスケッチブックだった。いつも広場で似顔絵を描くときに使っているもの。鉛筆も、特別なものではない。短くなった、少し汚れた鉛筆。

 蒼は、部屋の隅にあった低いテーブルのそばに座った。

 そして、佐伯を見た。

 絵ではなく、佐伯自身を。

 透子は息を止めた。

 蒼は何も言わず、鉛筆を紙に置いた。

 最初の線は、弱かった。

 迷いがあった。

 魔具を使ったときのような、線が勝手に行き先を知っている感じはない。蒼の手は何度も止まり、佐伯の背中と紙を見比べる。鉛筆の線は少し震え、消しゴムで直した跡も残る。

 描いているのは、佐伯だった。

 陽菜の絵の前で座り込んでいる父親。

 床に膝をつき、背中を丸め、顔を上げている。  痩せた肩。  しわになったシャツ。  絵へ伸びかけて、届かずにいる手。  壁の上の明るすぎる少女の絵。

 蒼は、陽菜を描かなかった。

 絵の中の少女そのものを写すのではなく、その絵を見上げている佐伯の姿を描いた。

 透子は、黙って見ていた。

 蒼の絵は、完璧ではなかった。

 人体の重心は少し不安定だ。  床の角度も、部屋の奥行きも完全ではない。  佐伯の手はやや大きく、顔の輪郭も似ているとは言い切れない。

 けれど、そこには今までの蒼とは違うものがあった。

 魔法の煌めきは、ほとんどない。

 ほんの少し、鉛筆の線の端に滲むようなものがあるだけ。  それも透子が目を凝らさなければ見逃すほどだった。

 だが、その線には痛みがあった。

 魔法で引き出された感情ではない。  魔具が閉じ込めた記憶でもない。  蒼自身が目の前の佐伯を見て、迷いながら、傷つきながら、それでも手を動かしている痛み。

 透子は初めて、蒼の普通の絵に、蒼自身を見た気がした。

 上手いからではない。  光っているからでもない。  むしろ、線は頼りなく、紙の上で揺れている。

 それでも、その絵には誠実さがあった。

 逃げずに見ようとしている人の線だった。

「佐伯さん」

 蒼は描きながら言った。

 佐伯は反応しなかった。

「陽菜ちゃんを描いた絵は、ここにあります」

 鉛筆が動く。

「でも、今ここにいるのは、佐伯さんです」

 その声は静かだった。

 説得ではない。  叱責でもない。

 ただ、目の前にあるものを言葉にしているだけだった。

「陽菜ちゃんを失った佐伯さんが、ここにいる」

 佐伯の肩が、小さく動いた。

 蒼は鉛筆を止めない。

「僕は、それを見ないで描きました」

 蒼の声が少し震えた。

「佐伯さんが何を失ったのかを見ないで、佐伯さんが見たい陽菜ちゃんだけを描いた。絵で救えると思った。けれど、救うっていうのは、そういうことじゃなかったのかもしれない」

 透子は胸が痛くなった。

 蒼の言葉は、透子にも向けられているようだった。

 描いてみようと言ったのは、自分だ。  佐伯の悲しみを見ないで、救える結果だけを見ようとした。  絵がうまくいけば、感謝されれば、涙を流せば、それで救いなのだと思った。

 浅かった。

 その言葉が、透子の中に沈んだ。

 蒼は、絵を描き続けた。

 佐伯の背中の線を強める。  膝の影を足す。  床に落ちる薄い光を描く。  壁の絵は、あえて細かく描かない。黄色い傘の輪郭だけを、淡く置く。

 焦点は、陽菜ではない。  父親の方にある。

 娘の絵の前で、失った自分から目を逸らしていた父親。

 その姿が、少しずつ紙の上に現れていく。

 佐伯は、やがて蒼の手元を見た。

 最初はぼんやりと。  次に、何を描いているのか気づいたように。

「私……ですか」

 声はかすれていた。

 蒼は頷いた。

「はい」

「どうして」

「今、描かなきゃいけないのは、陽菜ちゃんじゃないと思ったから」

 佐伯は、絵を見た。

 そこに描かれている自分を。

 娘の絵の前で座り込む、痩せた男。  髪は乱れ、シャツはしわになり、手は何かを求めて伸びかけている。  壁には、黄色い傘を持った少女の絵。

 それは、きれいな絵ではなかった。

 人を慰めるための絵でもない。  見たい姿を見せてくれる絵でもない。  ただ、そこにいる人間を描いた絵だった。

 佐伯は、じっと見ていた。

 長い時間だった。

 やがて、彼の顔が歪んだ。

「こんな顔を」

 佐伯は言った。

「私は、こんな顔をしていたんですか」

 誰も答えなかった。

 答える必要はなかった。

 佐伯は、自分の両手を見た。

 痩せて、少し震えている手。

「私は、陽菜を見ていたんじゃないんですね」

 その声は、ほとんど聞こえないほど小さかった。

「陽菜を失った自分を、見ないようにしていた」

 透子は、息を詰めた。

 佐伯は壁の絵を見た。

 陽菜は笑っている。

 変わらず、美しく。

 けれど、さっきまでのように部屋全体を支配してはいないように見えた。透子の目に映る光も、ほんの少しだけ弱くなった気がした。

 蒼は鉛筆を置いた。

「陽菜ちゃんの絵は、消しません」

 彼は言った。

「でも、魔法だけは弱めさせてください。陽菜ちゃんを忘れさせるためじゃない。絵を、絵に戻すために」

 佐伯は目を閉じた。

 長い沈黙。

 そして、小さく頷いた。

 蒼は、今度こそ木箱を開けた。

 透子は緊張した。

 また魔具を使うのだと思ったから。

 けれど、蒼が取り出したのは魔法の筆ではなかった。金属ケースの横に入っていた、透明な小瓶だった。中には水のようなものが入っている。普通の水より少し重そうに、瓶の中で揺れていた。

「何?」

 透子が小さく聞く。

「残りすぎたものを薄める水」

 蒼は短く答えた。

 それ以上の説明はなかった。

 蒼は布にその水を少し含ませ、絵の表面へ近づけた。

 佐伯が身を硬くする。

 しかし、今度は止めなかった。

 蒼は、絵そのものをこするのではなく、表面に触れるか触れないかの距離で、ゆっくり布を動かした。黄色い傘の周り。少女の目元。口元。水たまりの光。

 透子には、光が細くほどけていくのが見えた。

 消えるのではない。

 糸が緩むように、強く張りつめていた煌めきが少しずつ解けていく。黄色い傘は鮮やかなままだ。陽菜の笑顔も消えない。白いワンピースも、水たまりも、そこにある。

 けれど、絵の中からこちらへ手を伸ばしてくるような力は、少しずつ薄れていった。

 絵が、ただの絵に戻っていく。

 美しいまま。  でも、誰かを閉じ込める力を失いながら。

 佐伯は、その過程を見ていた。

 涙は出ていなかった。

 ただ、長い間息を止めていた人のように、ゆっくり呼吸をしていた。

「消えないんですね」

 彼が言った。

「消えません」

 蒼は答えた。

「陽菜ちゃんの絵は、残ります」

「でも、もう……」

 佐伯は絵を見た。

「話しかけても、返事はしない」

 蒼は何も言わなかった。

 佐伯は自分で笑った。

 痛々しい笑いだった。

「最初から、返事なんてしていなかったのに」

 その言葉に、透子は胸を締めつけられた。

 佐伯は、壁の絵の前から少しだけ離れた。

 ほんの一歩。

 それだけだった。

 けれど、その一歩がどれほど重いのか、透子にはわかった。

 佐伯は蒼の描いたスケッチを見た。

「その絵、いただけますか」

 蒼は少し驚いた。

「これを?」

「はい」

「でも、これは」

「見たくない絵です」

 佐伯は言った。

「でも、たぶん、見なければいけない絵です」

 蒼は黙って頷いた。

 部屋を出るとき、佐伯は玄関まで見送った。

 顔色は悪いままだ。部屋の中も片づいていない。絵の前から離れられたからといって、すぐに生活が戻るわけではないだろう。

 それでも彼は、さっきより少しだけ現実の光の中にいた。

「すみませんでした」

 佐伯は言った。

 蒼は首を横に振った。

「僕の方こそ」

 透子は、何も言えなかった。

 佐伯は透子を見る。

「三崎さんも、ありがとうございました」

 透子は胸が痛んだ。

 感謝される資格などないと思った。

 けれど、そこで謝ることも違う気がした。佐伯の悲しみを、自分の罪悪感でまた覆ってしまうような気がした。

 だから、透子はただ頭を下げた。

「……お大事にしてください」

 それだけ言った。

 帰り道、ふたりはほとんど話さなかった。

 坂道を下る。  商店街を抜ける。  海の匂いが近づく。

 空は明るかった。  梅雨明け前とは思えないほど、青が広がっていた。

 その明るさが、透子には少しつらかった。

 アトリエへ戻ると、部屋はいつも通りだった。

 白いカーテン。  絵の具の匂い。  机の上の紙。  窓の外の海。

 けれど、何もかもが少し違って見えた。

 透子は椅子に座った。鞄を膝に置いたまま、動けなかった。蒼は机の前に立ち、木箱を開いたまま、しばらく中を見つめていた。

 魔法の筆。  魔法の絵の具。  小瓶。  布。

 それらは静かだった。

 まるで、何も起こらなかったかのように。

「僕は」

 蒼が言った。

 声はかすれていた。

「やっぱり、魔具だけでは人を救えない」

 透子は顔を上げた。

 蒼は窓の外を見ていなかった。  木箱の中を見ていた。

「わかっていたつもりだった。危ないって。人の心に触るのは、便利なことじゃないって。でも、千枝さんや他の人たちが救われたように見えて、僕も少し信じたかった」

 透子の胸が痛んだ。

「私も」

 声が小さくなった。

「私も、信じたかった。絵で救えるって。自分もそこに関われてるって」

 蒼は透子を見た。

 透子は視線を落とした。

「佐伯さんのこと、わかったつもりになってた。娘を亡くして悲しいんだって。だから絵があれば、少し楽になるって。そんなふうに、簡単に考えてた」

 言葉にするほど、罪悪感が形を持っていく。

「絵の意図なら読める。人の話も、何を残したいのか少しはわかる。でも、人の悲しみを本当にわかるわけじゃないのに」

 蒼は何も言わなかった。

 その沈黙が、透子には必要だった。

 慰められたら、きっと逃げてしまう。

 自分は悪くない。  善意だった。  仕方なかった。

 そういう言葉で、今日のことを小さくしてしまう。

 それは駄目だと思った。

 蒼は、ゆっくり木箱を閉じた。

 しかし、すぐに手を離さなかった。

「僕は、自分の絵を描けるようにならなきゃいけない」

 透子は蒼を見た。

「魔具に頼らずに。魔具を使うとしても、飲み込まれないように。目の前の人を、ちゃんと自分の目で見て描けるようにならないと」

 その声は、静かだった。

 けれど、今までより深く決まっていた。

「今日、佐伯さんを描いたとき」

 蒼は続けた。

「あれは、うまい絵じゃなかった。でも、あれを描かなきゃいけなかった。魔具じゃなくて、僕が見たものを」

 透子は、何も言えなかった。

 あの絵を思い出す。

 娘の絵の前で泣いている父親。  頼りない線。  不安定な重心。  ほとんど光のない紙。

 けれど、そこには蒼自身の痛みと誠実さがあった。

 透子は、あの絵を忘れられないと思った。

 蒼の魔法の絵よりも、ずっと下手だった。  それなのに、目を逸らせなかった。

 自分も、そういう絵を描けるだろうか。

 問いは胸に浮かんだが、答えはなかった。

 ただ、今は何も言えなかった。

 窓の外で、風が強くなった。

 海の光が、机の上の水入れに反射する。  蒼がさっき筆を洗った水だった。魔具を使ったあと、色を落とした水。青と黄と灰色が混ざり、薄く濁っている。

 透子は、ふとその水を見た。

 水面が、かすかに光っていた。

 最初は、窓からの反射だと思った。

 けれど違った。

 水そのものが、青く光っている。

 ほんのわずかに。  深いところから、薄い青が滲み上がるように。

「湊くん」

 透子が声を出す。

 蒼も気づいた。

 彼の表情が変わる。

 水入れの中の水が、静かに揺れた。

 風は止んでいる。  机は動いていない。

 それなのに、水面だけが、海の底で波が重なるように揺れている。

 青い光は、ゆっくりと濃くなった。

 蒼は、息を呑んだ。

「……前兆だ」

 透子は、その言葉の意味をまだ知らなかった。

 けれど、胸の奥が冷たくなるのを感じた。

 水入れの中で、青い光がもう一度、静かに揺れた。