佐伯の部屋を訪ねた日から、透子と蒼の間には、目に見えない薄い膜のようなものが残った。
喧嘩をしたわけではない。
互いに責め合ったわけでもない。
むしろ、責める言葉が見つからなかった。
透子は、自分が「描いてみよう」と言ったことを忘れられなかった。あのとき、佐伯を救えると思った。千枝や、マルの飼い主や、喫茶店の老夫婦のように、絵が誰かの記憶を支えられると信じたかった。
けれど、陽菜の絵は佐伯を支えるのではなく、彼をその前に縫い止めてしまった。
蒼もまた、口数が減った。
アトリエで顔を合わせても、以前のようにすぐスケッチブックを開くことはなかった。机の上には鉛筆も紙もある。絵の具も、水入れも、窓から入る海風も、すべていつも通りだった。
それなのに、ふたりはしばらく何も描かないことが増えた。
蒼は窓辺に立ち、海を見る。
透子は机の前に座り、閉じたスケッチブックの表紙を指でなぞる。
どちらも、何か言うべきだとわかっていた。けれど言葉にすると、あの日の部屋の匂いや、カーテンの隙間から差した細い光や、絵の前で座り込んだ佐伯の背中まで一緒に出てきそうで、口を開けなかった。
学校でも、透子は上の空だった。
授業中、ノートは取る。教師に指されれば答える。課題も提出する。表面上は何も変わっていない。
けれど、黒板の文字を写している途中で、ふいに陽菜の絵の黄色が目の裏に浮かぶことがあった。強すぎる光。笑っているはずなのに、見る者を引き寄せるような目。父親の願望を吸って、ますます明るくなっていった絵。
鉛筆の先が止まる。
気づくと、ノートの端に丸を描いていた。
赤でも、黄色でもない。ただの鉛筆の丸。けれどその丸を見るたび、透子は蒼が描いた最初の抽象画を思い出した。赤い丸から感じた懐かしさ。あれは、ただの魔法の実演だったはずなのに、今では少し怖かった。
「透子、聞いてる?」
昼休み、由衣に声をかけられて、透子は顔を上げた。
「え?」
「やっぱ聞いてない。夏休みの部活予定の話」
「ああ……ごめん」
教室の窓の外では、校庭の紫陽花がもう色を失い始めていた。青かった花が少しずつ褪せ、葉の緑だけが濃くなっている。空は晴れているのに、空気にはまだ湿り気が残っていた。
「最近、ぼーっとしてるよね」
由衣が購買のパンを片手に言った。
「そう?」
「そう。美術室にもあんまり来ないし」
「ちょっと、描きたいものがあって」
「へえ。新作?」
透子は答えに詰まった。
描きたいものがある、と言ったのは半分だけ本当だった。
描かなければいけないものがある気はする。佐伯の部屋で見たもの。絵の前から離れられなくなった父親。魔具を使わずにその姿を描いた蒼。あの頼りない線。ほとんど光のない、けれど逃げていない絵。
あれを見てから、透子の中で何かが変わりかけていた。
でも、それを自分の絵にすることは、まだできなかった。
「まだ、形になってない」
透子がそう言うと、由衣は少し意外そうに目を丸くした。
「透子でもそういうことあるんだ」
「あるよ」
「なんか、安心した」
「安心?」
「透子って、描く前から完成形見えてそうだから」
その言葉に、透子は小さく笑った。
以前なら、それは褒め言葉として受け取れなかった。完成形が見えるからこそ、自分の絵は空っぽなのだと思っていた。
でも今は、少し違う。
完成形が見えること自体は、悪いことではない。問題は、その完成形へ逃げてしまうことだ。迷いや痛みや、まだ形にならないものを置き去りにして、先に整えてしまうこと。
蒼の言葉を思い出す。
何かが出てくる前に、形にしてしまってる気がする。
そのときは反発した。
でも今は、痛いほどわかる。
「見えない方が、描くの怖いよ」
透子が言うと、由衣は首をかしげた。
「何か深いこと言ってる?」
「別に」
「透子、最近ちょっと変」
「よく言われる」
「誰に?」
透子は返事をしなかった。
由衣はそれ以上追及せず、パンをかじった。
放課後、美術室に顔を出すと、榊が透子の手元を見て言った。
「最近、線が硬いな」
透子はスケッチブックのページを見下ろした。
描いていたのは、美術室の窓辺だった。石膏像と、絵の具の瓶と、窓の外の白い雲。構図は悪くない。光も取れている。けれど、線がいつもより少し強く、逃げ場がない。
「そうですか」
「何か考えてるなら、それは悪いことじゃない。ただ、考えたことを全部線で押さえつけるなよ」
榊はそれだけ言って、他の部員のところへ行った。
透子は返事をしないまま、鉛筆を置いた。
考えたことを全部線で押さえつける。
その言葉もまた、胸に残った。
美術室を出たあと、透子はいつものように商店街へ向かった。
坂道を下ると、海の匂いがした。
けれどその日は、いつもより強かった。晴れているのに、まるで嵐の前のように潮の匂いが濃い。魚屋の前の氷や、濡れたロープや、錆びた鉄の匂いではない。もっと深いところから上がってくる、水そのものの匂いだった。
透子は足を止めた。
商店街のアーケードには、夏の光が斜めに入り込んでいる。八百屋のトマトは赤く、金物屋の軒先の風鈴は涼しげに鳴っていた。何もおかしいところはない。
それなのに、海だけが近すぎる。
坂を下り、広場へ出ると、蒼がいた。
折りたたみ椅子に座り、スケッチブックを開いている。小さな木箱も、手書きの札もある。以前と同じ路上の絵描きの姿だった。
けれど、描いていなかった。
膝の上の紙は白いまま。蒼は鉛筆を持っているが、その先は紙に触れていない。広場には、買い物帰りの女性と、ベンチに座る老人がいる。描こうと思えばいくらでも題材はある。
それでも蒼は、ただ紙を見ていた。
「描かないの」
透子が声をかけると、蒼は少し遅れて顔を上げた。
「ああ。来てたんだ」
「今来た」
「うん」
会話はそこで途切れた。
以前なら、透子はすぐに何かを言っていたはずだった。手元を覗き込んで、形がずれているとか、重心が甘いとか、光を見ろとか。蒼も、困ったように笑いながら受け止めていた。
でも今は、白い紙が二人の間にあるだけだった。
「路上で描くの、久しぶりだね」
「うん」
「描けそう?」
蒼は鉛筆を見た。
「わからない」
「怖い?」
透子は、聞いてから少し後悔した。
蒼は怒らなかった。
「うん」
素直に頷いた。
「何を描いても、あの部屋のことを思い出す」
透子は、広場の石畳を見た。
晴れた日の光が落ちている。水たまりはない。昨日までの雨は乾いていた。それでも、透子の目には佐伯の部屋の薄暗さが重なった。
「私も」
そう言うと、蒼は少しだけ透子を見た。
「佐伯さん、どうしてるかな」
「佳乃さんが、ときどき様子を見てくれてる」
「そうなんだ」
「まだ、仕事には戻れてないみたい。でも、食事は少し取ってるって」
それを聞いて、透子は少しだけ息を吐いた。
救われた、とは言えない。
でも、完全に絵の中に沈んでしまったわけではない。
それだけでも、今はよかったと思うしかなかった。
蒼はスケッチブックを閉じた。
「今日は、やっぱり描けない」
「無理に描かなくても」
「でも、描かないと」
その言葉は、透子が何度も自分に言ってきたものに似ていた。
描かないと。 描けるようにならないと。 自分の絵を。
透子は何も返せなかった。
そのとき、広場の端に置かれた喫茶店の看板が、風もないのに小さく揺れた。
かた、と乾いた音がする。
蒼が顔を上げた。
透子も看板を見る。
風は止んでいる。風鈴も鳴っていない。なのに、看板だけがもう一度揺れた。
同時に、潮の匂いが強くなる。
広場に海が流れ込んできたようだった。
蒼の表情が変わった。
透子はその横顔を見て、佐伯の部屋から戻った日のことを思い出した。水入れの中の水が青く光ったとき、蒼は言った。
前兆だ。
「湊くん」
透子が呼ぶと、蒼はすぐには答えなかった。
彼は木箱を片づけ、立ち上がった。
「アトリエに行こう」
声は静かだったが、急いでいるようにも聞こえた。
アトリエへ向かう途中、前兆はさらに増えていった。
路地の壁にかかった小さな鏡の前を通ったとき、透子は足を止めた。
古い鏡だった。喫茶店の裏口近くにかけられている、身だしなみを整えるためのものだろう。縁は錆び、表面には細かな曇りがある。
その鏡から、波音がした。
ほんのかすかに。
ざ、と水が引く音。
透子は思わず鏡に近づいた。映っているのは、路地と、自分と、蒼だけだった。海など見えない。けれど鏡の奥で、もう一度波が引いたような音がした。
「聞こえた?」
透子が聞くと、蒼は頷いた。
「うん」
「これも前兆?」
「たぶん」
たぶん、と言いながら、蒼の顔はそうだと知っている人のものだった。
外階段を上がると、アトリエの窓が開いていた。
朝、閉めていったはずだと蒼が言った。鍵まではかけていなかったが、窓は確かに閉じていたはずらしい。カーテンは海風を受けて大きく揺れ、部屋の中へ潮の匂いを運んでいる。
透子が部屋に入ると、机の上の水入れが目に入った。
中の水は、薄く青く光っていた。
昼間の光の反射ではない。 水そのものが、内側から青を発している。
蒼は水入れの前に立ち、しばらく黙って見下ろしていた。
「水鏡の国の扉が近い」
やがて、そう言った。
透子は、その言葉を初めてはっきり聞いた気がした。
「水鏡の国」
繰り返すと、蒼は小さく頷いた。
「僕が来たところ」
それ以上、すぐには続けなかった。
アトリエの中は明るいのに、急に遠い場所の影が差したようだった。
透子は、水入れの青い光を見た。
水鏡の国。
名前だけなら美しい。 けれど蒼の声には、美しさよりも緊張があった。
「扉って?」
「行き来できる時期があるんだ。いつでもじゃない。水面が重なるみたいに、向こうとこっちが近づくときがある」
「それが今?」
「まだ開いてはいない。でも、近い」
蒼は水面を見つめた。
「前兆が出始めたら、そう長くはない」
「どのくらい?」
「わからない。数日か、もう少し先か」
透子は、言葉を失った。
数日。
その響きが、思ったよりも鋭く胸に刺さった。
まだ何も聞いていないのに。 蒼が帰るとも言っていないのに。
それでも、別れという言葉が、心の端に触れた。
そのとき、階段を上がる足音がした。
ゆっくりした、大人の足音。
扉の前で、佳乃が顔を出した。
「やっぱり、ここにいたのね」
彼女はいつもの紺色のエプロンをつけていた。けれど表情は、喫茶店で見せる柔らかなものとは少し違っている。落ち着いてはいるが、目元に緊張があった。
「佳乃さん」
蒼が言う。
佳乃は部屋に入り、水入れの青い光を見た。
「始まったのね」
「はい」
透子は、ふたりを見比べた。
佳乃は魔法のことを知っている。
それは以前から薄々わかっていた。蒼を「少しだけ預かっている」と言ったこと。アトリエの管理人でありながら、蒼の事情に深く踏み込まないこと。魔具についても、直接聞かずに見守っていたこと。
でも今、そのことがはっきりした。
「三崎さん」
佳乃は透子を見た。
「少し、話してもいいかしら」
「はい」
佳乃は机のそばに座らず、窓辺に立った。
海を背にすると、その姿はいつもより少し遠い人のように見えた。喫茶店の店主ではなく、別の場所の秘密を預かっている大人。
「蒼くんは、数年前にこの街へ来たの」
佳乃は言った。
「詳しいことは、私から話すことではないけれど。こちらで暮らせるように、私が少し手伝ってきた。アトリエを使わせているのも、その一つ」
蒼は黙っていた。
透子は頷くことしかできなかった。
「今日、手紙が届いたわ」
佳乃はエプロンのポケットから、小さな封筒を取り出した。
封筒と言っても、普通の紙ではなかった。
薄い青灰色で、表面がわずかに透けている。紙というより、乾いた水の膜のように見える。封はされているが、糊の跡はない。縁には細かな波紋の模様が浮かんでいた。
佳乃がそれを机の上に置くと、水入れの青い光が少しだけ強くなった。
「水鏡の国から」
蒼が低く言った。
佳乃は頷いた。
「私宛てに来たけれど、蒼くんに見せるべき内容だと思う」
蒼は封筒を手に取った。
指先が触れると、封筒の表面に薄い波紋が広がった。まるで水面に指を置いたようだった。透子は思わず目を凝らす。
蒼が封を開ける。
中から一枚の紙が出てきた。
そこに書かれている文字は、透子には読めなかった。日本語ではない。アルファベットでもない。水の流れを線にしたような文字が、薄い青で浮かんでいる。
けれど蒼には読めるらしい。
彼は紙面を追い、途中で表情を硬くした。
「何て?」
透子が聞くと、蒼はすぐには答えなかった。
佳乃が静かに言った。
「向こうでも、波が乱れているそうよ」
「波?」
「こちらと向こうを隔てているもの、とでも言えばいいかしら」
佳乃は説明しすぎないように言葉を選んでいるようだった。
「普段は穏やかに離れているの。でも、強い魔法が記憶や心に干渉すると、その波に揺れが出ることがある」
透子は、佐伯の絵を思い出した。
強すぎる光。 願望まで吸い込んだ絵。 その前から離れられなくなった父親。
「佐伯さんの絵のことですか」
透子が言うと、蒼が小さく頷いた。
「たぶん」
佳乃は、蒼の持つ手紙へ視線を落とした。
「蒼くんが持っている筆と絵の具は、本来、記憶と心を扱う職人が受け継ぐものだったそうよ」
透子は木箱を見た。
机の隅に置かれた、小さな木箱。 その中にある魔法の筆と絵の具。
これまで、蒼はそれをただ持て余しているように見えた。使い方も、意味も、完全には教えられていないと言っていた。
「職人?」
透子が聞くと、蒼が答えた。
「記憶を絵に残す人たちがいる。向こうでは、そういう役目があるらしい」
「らしい?」
「僕は、ちゃんと教わる前にこっちへ来たから」
その言葉の奥に、まだ話されていない事情があることはわかった。
透子は深く聞けなかった。
佳乃が続ける。
「本来は、ただ心を動かす絵を描くための道具ではないの。記憶を支えるため、失われそうなものを静かに留めるためのもの。でも、扱いを間違えると、留めるのではなく閉じ込めてしまう」
閉じ込める。
その言葉が、部屋の中に重く落ちた。
佐伯の絵。 陽菜の笑顔。 父親を絵の前に縫い止めた光。
まさに、それだった。
透子は胸が痛んだ。
「手紙には、何て書いてあるの」
蒼は紙を見つめた。
「魔具の波が乱れている。持ち主は、戻って報告すること。必要なら、調律を受けること」
「調律?」
「魔具を整えることだと思う」
「戻るって……水鏡の国に?」
透子の声は、自分でも少し硬く聞こえた。
蒼はすぐに答えなかった。
その沈黙で、透子は答えを知ってしまった。
佳乃は静かに言った。
「扉が開く時期は限られているわ。前兆が出たなら、向こうもこちらも近づいている。手紙が来たということは、向こうは蒼くんを呼んでいるのだと思う」
「必ず、行かなきゃいけないんですか」
透子は佳乃を見た。
自分でも、責めるような声になっていることがわかった。
佳乃は怒らなかった。
「私には決められないわ」
「蒼は?」
透子は蒼を見る。
蒼は手紙を持ったまま、海の方を見ていた。
窓の外の海は、いつもと違って見えた。
青い。
ただの夏の海の青ではなかった。水面の奥から、薄い光が浮かび上がっている。遠くの水平線のあたりが、鏡のように揺れている。晴れているのに、まるで夜の水底を覗いているような青。
透子には、それが前兆なのだとわかった。
蒼は何も言わなかった。
言えないのだ。
透子に、まだ言えない。
戻らなければならないかもしれないことを。
次にいつ会えるかわからない場所へ行くことを。
もしかしたら、もう会えないかもしれないことを。
透子はそれを理解してしまい、胸の奥が冷たくなった。
佳乃は手紙を机に置いた。
「急に決めなくていいわ。でも、時間はあまりないと思う」
蒼は小さく頷いた。
透子は、何も言えなかった。
アトリエの中には、絵の具の匂いと潮風がある。 机の上には、開かれた手紙。 水入れには青い光。 窓の外には、いつもと違う海。
蒼はその海を見ている。
透子は、彼の横顔を見ていた。
その表情が、遠くの何かに呼ばれているように見えて、透子は名前を呼ぶことができなかった。
海は静かに青く光っていた。
佳乃がアトリエを出ていったあとも、手紙は机の上に残っていた。
薄い青灰色の紙。 水面のような文字。 封筒の縁に浮かんだ、細かな波紋。
透子には読めない。 けれど、その紙がこの部屋の空気を変えてしまったことだけはわかった。
窓の外では、海が青く光っている。
夏の海の青ではない。もっと深く、もっと遠い場所の色だった。水平線のあたりが薄く揺れ、空と海の境目がいつもより曖昧に見える。晴れているはずなのに、光の奥に雨の気配があるようだった。
蒼は、窓辺に立ったまま動かなかった。
手紙を読んでから、彼の横顔はずっと遠くを向いている。
それが、透子には嫌だった。
目の前にいるのに、もうどこか別の場所へ行ってしまったように見えたからだ。
「湊くん」
透子は声をかけた。
蒼は少し遅れて振り返る。
「何?」
「何じゃない」
思ったより冷たい声が出た。
蒼は黙った。
透子は机の上の手紙を見た。
「さっきから、何も言ってない」
「……ごめん」
「謝ってほしいわけじゃない」
「うん」
「じゃあ、話して」
蒼は視線を落とした。
それは、佐伯の部屋で魔法を抜こうとしたときの沈黙とは違っていた。あのときの蒼は、何をすべきかを探していた。今の蒼は、言うべきことを知っているのに、言えずにいる。
透子には、それがわかった。
だから余計に怖かった。
「水鏡の国の扉が近いって、言ったよね」
「うん」
「それは、どういう意味」
「向こうへ戻れる時期が近いってこと」
「戻れる?」
透子はその言葉を拾った。
「戻らなきゃいけない、じゃなくて?」
蒼はすぐには答えなかった。
窓から入る風が、机の上の手紙の端をかすかに揺らした。紙の表面に波紋のような影が走る。水入れの中の青い光も、ゆっくりと揺れている。
「最初は、戻れる時期が来た、ってだけだった」
蒼は言った。
「でも、手紙が来た。魔具の異変が向こうにも伝わっている。僕が持っている筆と絵の具の波が乱れてるって」
「それは、佐伯さんの絵のせい?」
「たぶん。あれだけじゃないかもしれないけど」
蒼は木箱の方を見た。
閉じられた木箱。 その中に、魔法の筆と絵の具が入っている。
千枝の夫を描いた。 亡くなった犬を描いた。 閉店する喫茶店を描いた。 友人との帰り道を描いた。 陽菜を描いた。
魔具は、そのたびに誰かの心へ触れた。
そして最後に、触れすぎた。
「このまま放っておくと、どうなるの」
「わからない」
「また、ああいうことが起きる?」
「起きるかもしれない。起きないかもしれない。でも、僕には判断できない」
蒼の声は静かだった。
自分を責めるような響きはある。けれど、それだけではなかった。そこには、何かを見極めようとする硬さがあった。
「僕は、ちゃんと知らないまま使ってた。怖いと思いながら、嫌だと思いながら、それでも使った。うまくいったときは、少しだけ安心した。こういう使い方ならいいのかもしれないって」
透子は黙って聞いていた。
「でも、知らないままじゃ駄目だった」
蒼は、机の上の手紙を見た。
「この魔具が本来どういうものなのか。どう扱えばいいのか。どこからが記憶を支えることで、どこからが閉じ込めることなのか。僕は知らなきゃいけない」
「それを知るために、戻るの?」
透子の声はかすかに震えた。
蒼は、ゆっくり頷いた。
「たぶん、戻らなきゃいけない」
言葉が落ちた。
アトリエの中で、何かが静かに壊れたような気がした。
透子はすぐに何も言えなかった。
わかっていた。前兆だと言われたときから、どこかでわかっていた。蒼の来た場所へ続く扉が近いなら、それは蒼が帰るかもしれないということだ。
それでも、本人の口から聞くと違った。
戻る。
その言葉は、帰る、より遠かった。
「いつ」
透子は聞いた。
「まだ、はっきりとは」
「近いって、どれくらい」
「数日かもしれない。梅雨が明けるころには、たぶん」
梅雨が明けるころ。
窓の外の海が青く光っている。
透子は、湿った風の中に混じる夏の匂いを感じた。もうすぐ長い雨の季節が終わる。学校では終業式が近づき、夏休みの予定が話題になり始めている。
その夏が始まるころ、蒼はいなくなるかもしれない。
「帰らなきゃいけないの」
透子は静かに尋ねた。
自分でも驚くくらい、声は平らだった。
もっと取り乱すと思っていた。怒るかもしれない。行かないでと言うかもしれない。何かを責めるかもしれない。
でも、言葉はひどく静かに出た。
蒼はその静けさを受け止めるように、少しだけ目を伏せた。
「これは、罰じゃない」
「罰?」
「佐伯さんのことで失敗したから帰らされる、とかじゃない。そういうことじゃない」
「じゃあ何」
「僕が決めること」
蒼はそう言った。
透子は胸が痛くなった。
誰かに命じられたと言われた方が、まだ楽だったかもしれない。水鏡の国からの命令だから仕方ない。魔具の異変だから戻らなければならない。そういう理由なら、透子は怒る相手を外に置けた。
でも、蒼は自分で決めると言った。
「僕は、魔法が嫌だった」
蒼は窓の外を見た。
「自分の手で描いた絵じゃない気がした。魔法が混ざると、自分の気持ちまで勝手に出るのが怖かった。だから、なるべく使わないでいた。知らない人を路上で描いて、思い入れが強くならないようにして」
透子は、初めて会った日の蒼を思い出した。
広場の端。 折りたたみ椅子。 似顔絵の札。 親子連れ。 布で隠されたおばあさんの絵。
あのとき、蒼は知らないものを描こうとしていた。自分の中の魔法から逃れるために。
「でも、それだけじゃ駄目だってわかった」
蒼は続けた。
「逃げていても、魔法は消えない。魔具を閉じ込めていても、僕の中からなくなるわけじゃない。なら、ちゃんと向き合うしかない」
「向き合うために、水鏡の国へ戻る」
「うん」
「戻ったら、どうなるの」
「わからない」
「また、わからない」
透子の声が少しだけ荒くなった。
蒼は言い返さなかった。
透子は唇を噛んだ。
「次にこっちへ来られるのは?」
聞きたくなかった。
でも、聞かずにはいられなかった。
蒼は手紙へ視線を落とした。
「わからない」
透子は目を閉じた。
「数日とか、数週間とかじゃないんだよね」
「うん」
「数年?」
「かもしれない」
「それ以上?」
「……かもしれない」
部屋の中の空気が重くなった。
透子は、自分の手が冷えていることに気づいた。鞄の肩紐を握っている指先に力が入っている。ゆるめようとしても、うまくできなかった。
「もう会えないかもしれないってこと?」
蒼は答えなかった。
それが答えだった。
透子は笑いそうになった。
もちろん、楽しいからではない。あまりにも急で、あまりにも馬鹿げていて、どう反応すればいいのかわからなかった。
魔法。 水鏡の国。 扉。 前兆。 数年後か、それ以上か、わからない。
そんな言葉で、蒼がいなくなるかもしれないことを説明されている。
現実感がなかった。
でも、目の前の蒼の表情だけが現実だった。
「言えなかったんだ」
透子は言った。
蒼は小さく頷いた。
「ごめん」
「謝らないで」
「でも」
「謝られたら、怒れなくなる」
声が震えた。
蒼は口を閉じた。
透子は窓の外を見た。
海はまだ青く光っている。潮の匂いが強い。遠くで船の汽笛が鳴った。街はいつも通りなのに、アトリエの中だけ別の時間に入ってしまったようだった。
「止めたい」
透子は言った。
蒼がこちらを見る。
「本当は、止めたい」
初めて、少しだけ感情が声に出た。
「行かないでって言いたい。魔具なんて置いていけばいいとか、こっちで何とかすればいいとか、佳乃さんに頼めばいいとか、そういうことを言いたい」
言葉にした途端、胸が苦しくなった。
「でも、湊くんが戻る理由も、わかってしまう」
それが一番つらかった。
蒼が逃げるために行くなら、責められた。 何も言わずにいなくなるなら、怒れた。 誰かに命じられて仕方なく行くなら、泣いて止められたかもしれない。
でも蒼は、自分の絵と魔法に向き合うために戻ろうとしている。
それは、透子が蒼にずっと求めていたことでもあった。
魔具に飲み込まれず、自分の手で描くこと。 魔法を嫌うだけではなく、ちゃんと知ること。 逃げずに、自分の絵を描くこと。
それを彼が初めて選ぼうとしている。
だから、止める言葉が透子の中で崩れてしまう。
「ずるいね」
透子は呟いた。
「何が?」
「行く理由が、ちゃんとしてるところ」
蒼は困ったように目を伏せた。
「ちゃんとしてるかは、わからない」
「してるよ」
透子は言った。
「だから、困る」
ふたりはしばらく黙っていた。
水入れの青い光が、机の上に薄く映っている。手紙の文字は、透子には読めないままだ。けれどその青い線は、少しずつ薄くなったり濃くなったりして、呼吸しているようだった。
やがて蒼が言った。
「少し、外に出る?」
透子は頷いた。
アトリエを出て、ふたりは坂道を下った。
商店街を抜け、港へ続く道へ出る。夕方にはまだ早い時間だったが、空には雨雲が残っていた。青い空の端に濃い灰色があり、その隙間から夏の光が差している。
海辺の道は、湿っていた。
前日の雨がまだ堤防の隙間に残っている。波は穏やかで、低い音を立てながら岸に寄せていた。遠くの船は小さく、空と海の境目は薄く霞んでいる。
透子と蒼は、堤防のそばに並んで立った。
ここへ二人で来るのは、意外と少なかった。アトリエから海は見えていたし、広場からも港は見えた。けれど、こうして海のすぐそばまで降りてくることはあまりなかった。
「水鏡の国って」
透子は海を見ながら言った。
「海の向こうにあるの?」
「向こう、というより、重なってる」
「重なってる?」
「うん。水面に映った景色みたいに。手を伸ばしても触れられないけど、条件が合うと、向こう側へ行ける」
「よくわからない」
「僕も、説明はあまり得意じゃない」
「知ってる」
少しだけ、いつもの会話に戻った。
けれど、それはすぐに消えた。
波の音が間に入る。
「こっちに来たときも、扉が開いたの?」
「うん」
「自分で来たの?」
蒼は少し迷った。
「半分は」
「半分?」
「向こうにいるのが嫌だった。魔具を受け継ぐことも、職人になることも、よくわからないまま決められるのが嫌だった。だから、扉が開いたときにこっちへ来た」
初めて聞く話だった。
透子は蒼の横顔を見る。
「逃げてきたの?」
「そうだと思う」
蒼は否定しなかった。
「それで、こっちで知らない人を描いてたんだ」
「うん。知らないものを描いていれば、自分の中の魔法から離れられる気がした」
「離れられた?」
「全然」
蒼は小さく笑った。
その笑いは、少し苦かった。
「結局、どこにいても自分の手は自分のものだから」
透子は、その言葉を胸の中で繰り返した。
自分の手は自分のもの。
逃げても、魔法を使っても、使わなくても。 他人の技法を真似しても、評価される絵を描いても。
それでも、自分の手で描いていることからは逃げられない。
「私、まだ何も描けてない」
透子は言った。
蒼がこちらを見る。
「佐伯さんのあと、何か描かなきゃって思ってる。でも、何を描いても違う。あの部屋のことも、湊くんが描いた佐伯さんの絵のことも、何も描けない」
「描けるよ」
蒼はすぐに言った。
透子は少し笑った。
「簡単に言う」
「簡単じゃないけど、描けると思う」
「どうして」
「君は、見てるから」
「見るだけならできる」
「見るだけじゃない。苦しくても、なかったことにしない」
透子は返事をしなかった。
なかったことにしない。
蒼は以前も似たようなことを言った。石の絵の悲しさを感じたとき、赤い丸や青い三角を見たとき。透子は否定しようとしながらも、自分が感じたことをなかったことにはしなかった。
でも、それを絵にできるかは別の話だった。
「信じられない」
透子は正直に言った。
「描けるって言われても、全然信じられない」
「うん」
「そこは、もう少し励ますところじゃないの」
「信じられないものは、仕方ないと思う」
「本当に慰めないね」
「慰めても、たぶん怒るでしょ」
「怒る」
透子は小さく笑った。
笑えたことに、自分で少し驚いた。
海風が吹いた。
制服のスカートが揺れ、髪が頬にかかる。蒼はそれを見て、何か言いかけたが、やめた。
その沈黙が、いつもより長く感じた。
言いたいことがあるのに言えない。 聞きたいことがあるのに聞けない。
そんな時間ばかりが増えていく。
アトリエへ戻るころ、空の雨雲は少しずつ薄くなっていた。
西の方に明るい裂け目ができている。そこから差す光が、海面を白く照らしていた。街全体が湿ったまま光を浴びて、輪郭だけが夏に近づいている。
部屋に戻ると、蒼は木箱を開いた。
透子は少し身構えた。
蒼は魔法の筆を取り出し、机の上に置いた。次に金属ケースを開く。絵の具は静かだった。佐伯の絵を描いたときのような強すぎる反応はない。ただ、青だけが少し深く沈んで見えた。
「これ」
蒼は筆に触れた。
「もし僕が戻るなら、置いていくことになるかもしれない」
透子は驚いた。
「持って帰るんじゃないの」
「調律に必要なのは、たぶん魔具そのものじゃなくて、核の方だと思う。筆と絵の具の形は、こちらに残せるかもしれない」
「よくわからない」
「僕もまだ、はっきりはわからない」
蒼は少しだけ苦笑した。
「ただ、魔法の力は抜けると思う。残るとしても、ただの筆と絵の具に近くなる」
「それを、私に?」
蒼は答えなかった。
けれど、その沈黙は否定ではなかった。
透子は机の上の筆を見た。
古い木軸。 黒に近い毛先。 何度も絵を描き、記憶を閉じ込め、人の心に触れてきた道具。
魔法の力を失ったら、それはただの筆になるのだろうか。
それでも、透子は触れるのが怖かった。
「私には使えないよ」
「うん」
「魔法も使えないし、まだ自分の絵も描けてない」
「だから、かもしれない」
「どういう意味」
「魔法がなくなった筆なら、ただ描くしかないから」
透子は言葉を失った。
ただ描くしかない。
その言葉は、簡単で、残酷だった。
魔法の筆なら、心を込められる。 魔法の絵の具なら、記憶を色にできる。
でも魔法がなくなったら、残るのは筆と絵の具だけだ。
自分の手で描くしかない。
「まだ、決めたわけじゃない」
蒼は言った。
「でも、考えてる」
透子は頷けなかった。
受け取るとも、受け取れないとも言えなかった。
その筆が残るということは、蒼がいなくなるということだ。そんなものを今、考えたくなかった。
けれど蒼がその話をしたのは、彼なりに別れを逃げずに見ようとしているからだとわかった。
だから、透子は怒れなかった。
アトリエの空気は、夕方へ傾いていった。
水入れの青い光は、少し弱くなっている。手紙は机の端に置かれたまま。木箱は開いたまま。筆と絵の具は、静かにふたりの間にある。
蒼は窓の外を見た。
透子も同じ方を見る。
海の向こうで、雨雲が割れ始めていた。
灰色の雲の裂け目から、強い光が射している。まだ夕焼けには早い。けれどその光は白く、まっすぐで、夏のものだった。梅雨の重たい空を内側から押し開くように、海面へ落ちていく。
「扉が開く日は」
蒼が言った。
透子は振り向かなかった。
振り向くと、顔が崩れそうだった。
「たぶん、もうすぐだ」
その言葉は、静かだった。
けれど、避けようのないものとして部屋の中に満ちた。
透子は、喉の奥が痛くなるのを感じた。 目の奥も熱い。 それでも、泣かなかった。
泣いたら、蒼を止める言葉が溢れてしまいそうだった。
「わかった」
透子は言った。
声は、最後だけ少し震えた。
蒼は何も言わなかった。
窓の外で、夏の光が雨雲を割っていく。
長かった梅雨が、終わろうとしていた。