『アトリエ ~海の見えるアトリエ~』

第七章 水鏡の国からの手紙

 佐伯の部屋を訪ねた日から、透子と蒼の間には、目に見えない薄い膜のようなものが残った。

 喧嘩をしたわけではない。

 互いに責め合ったわけでもない。

 むしろ、責める言葉が見つからなかった。

 透子は、自分が「描いてみよう」と言ったことを忘れられなかった。あのとき、佐伯を救えると思った。千枝や、マルの飼い主や、喫茶店の老夫婦のように、絵が誰かの記憶を支えられると信じたかった。

 けれど、陽菜の絵は佐伯を支えるのではなく、彼をその前に縫い止めてしまった。

 蒼もまた、口数が減った。

 アトリエで顔を合わせても、以前のようにすぐスケッチブックを開くことはなかった。机の上には鉛筆も紙もある。絵の具も、水入れも、窓から入る海風も、すべていつも通りだった。

 それなのに、ふたりはしばらく何も描かないことが増えた。

 蒼は窓辺に立ち、海を見る。

 透子は机の前に座り、閉じたスケッチブックの表紙を指でなぞる。

 どちらも、何か言うべきだとわかっていた。けれど言葉にすると、あの日の部屋の匂いや、カーテンの隙間から差した細い光や、絵の前で座り込んだ佐伯の背中まで一緒に出てきそうで、口を開けなかった。

 学校でも、透子は上の空だった。

 授業中、ノートは取る。教師に指されれば答える。課題も提出する。表面上は何も変わっていない。

 けれど、黒板の文字を写している途中で、ふいに陽菜の絵の黄色が目の裏に浮かぶことがあった。強すぎる光。笑っているはずなのに、見る者を引き寄せるような目。父親の願望を吸って、ますます明るくなっていった絵。

 鉛筆の先が止まる。

 気づくと、ノートの端に丸を描いていた。

 赤でも、黄色でもない。ただの鉛筆の丸。けれどその丸を見るたび、透子は蒼が描いた最初の抽象画を思い出した。赤い丸から感じた懐かしさ。あれは、ただの魔法の実演だったはずなのに、今では少し怖かった。

「透子、聞いてる?」

 昼休み、由衣に声をかけられて、透子は顔を上げた。

「え?」

「やっぱ聞いてない。夏休みの部活予定の話」

「ああ……ごめん」

 教室の窓の外では、校庭の紫陽花がもう色を失い始めていた。青かった花が少しずつ褪せ、葉の緑だけが濃くなっている。空は晴れているのに、空気にはまだ湿り気が残っていた。

「最近、ぼーっとしてるよね」

 由衣が購買のパンを片手に言った。

「そう?」

「そう。美術室にもあんまり来ないし」

「ちょっと、描きたいものがあって」

「へえ。新作?」

 透子は答えに詰まった。

 描きたいものがある、と言ったのは半分だけ本当だった。

 描かなければいけないものがある気はする。佐伯の部屋で見たもの。絵の前から離れられなくなった父親。魔具を使わずにその姿を描いた蒼。あの頼りない線。ほとんど光のない、けれど逃げていない絵。

 あれを見てから、透子の中で何かが変わりかけていた。

 でも、それを自分の絵にすることは、まだできなかった。

「まだ、形になってない」

 透子がそう言うと、由衣は少し意外そうに目を丸くした。

「透子でもそういうことあるんだ」

「あるよ」

「なんか、安心した」

「安心?」

「透子って、描く前から完成形見えてそうだから」

 その言葉に、透子は小さく笑った。

 以前なら、それは褒め言葉として受け取れなかった。完成形が見えるからこそ、自分の絵は空っぽなのだと思っていた。

 でも今は、少し違う。

 完成形が見えること自体は、悪いことではない。問題は、その完成形へ逃げてしまうことだ。迷いや痛みや、まだ形にならないものを置き去りにして、先に整えてしまうこと。

 蒼の言葉を思い出す。

 何かが出てくる前に、形にしてしまってる気がする。

 そのときは反発した。

 でも今は、痛いほどわかる。

「見えない方が、描くの怖いよ」

 透子が言うと、由衣は首をかしげた。

「何か深いこと言ってる?」

「別に」

「透子、最近ちょっと変」

「よく言われる」

「誰に?」

 透子は返事をしなかった。

 由衣はそれ以上追及せず、パンをかじった。

 放課後、美術室に顔を出すと、榊が透子の手元を見て言った。

「最近、線が硬いな」

 透子はスケッチブックのページを見下ろした。

 描いていたのは、美術室の窓辺だった。石膏像と、絵の具の瓶と、窓の外の白い雲。構図は悪くない。光も取れている。けれど、線がいつもより少し強く、逃げ場がない。

「そうですか」

「何か考えてるなら、それは悪いことじゃない。ただ、考えたことを全部線で押さえつけるなよ」

 榊はそれだけ言って、他の部員のところへ行った。

 透子は返事をしないまま、鉛筆を置いた。

 考えたことを全部線で押さえつける。

 その言葉もまた、胸に残った。

 美術室を出たあと、透子はいつものように商店街へ向かった。

 坂道を下ると、海の匂いがした。

 けれどその日は、いつもより強かった。晴れているのに、まるで嵐の前のように潮の匂いが濃い。魚屋の前の氷や、濡れたロープや、錆びた鉄の匂いではない。もっと深いところから上がってくる、水そのものの匂いだった。

 透子は足を止めた。

 商店街のアーケードには、夏の光が斜めに入り込んでいる。八百屋のトマトは赤く、金物屋の軒先の風鈴は涼しげに鳴っていた。何もおかしいところはない。

 それなのに、海だけが近すぎる。

 坂を下り、広場へ出ると、蒼がいた。

 折りたたみ椅子に座り、スケッチブックを開いている。小さな木箱も、手書きの札もある。以前と同じ路上の絵描きの姿だった。

 けれど、描いていなかった。

 膝の上の紙は白いまま。蒼は鉛筆を持っているが、その先は紙に触れていない。広場には、買い物帰りの女性と、ベンチに座る老人がいる。描こうと思えばいくらでも題材はある。

 それでも蒼は、ただ紙を見ていた。

「描かないの」

 透子が声をかけると、蒼は少し遅れて顔を上げた。

「ああ。来てたんだ」

「今来た」

「うん」

 会話はそこで途切れた。

 以前なら、透子はすぐに何かを言っていたはずだった。手元を覗き込んで、形がずれているとか、重心が甘いとか、光を見ろとか。蒼も、困ったように笑いながら受け止めていた。

 でも今は、白い紙が二人の間にあるだけだった。

「路上で描くの、久しぶりだね」

「うん」

「描けそう?」

 蒼は鉛筆を見た。

「わからない」

「怖い?」

 透子は、聞いてから少し後悔した。

 蒼は怒らなかった。

「うん」

 素直に頷いた。

「何を描いても、あの部屋のことを思い出す」

 透子は、広場の石畳を見た。

 晴れた日の光が落ちている。水たまりはない。昨日までの雨は乾いていた。それでも、透子の目には佐伯の部屋の薄暗さが重なった。

「私も」

 そう言うと、蒼は少しだけ透子を見た。

「佐伯さん、どうしてるかな」

「佳乃さんが、ときどき様子を見てくれてる」

「そうなんだ」

「まだ、仕事には戻れてないみたい。でも、食事は少し取ってるって」

 それを聞いて、透子は少しだけ息を吐いた。

 救われた、とは言えない。

 でも、完全に絵の中に沈んでしまったわけではない。

 それだけでも、今はよかったと思うしかなかった。

 蒼はスケッチブックを閉じた。

「今日は、やっぱり描けない」

「無理に描かなくても」

「でも、描かないと」

 その言葉は、透子が何度も自分に言ってきたものに似ていた。

 描かないと。  描けるようにならないと。  自分の絵を。

 透子は何も返せなかった。

 そのとき、広場の端に置かれた喫茶店の看板が、風もないのに小さく揺れた。

 かた、と乾いた音がする。

 蒼が顔を上げた。

 透子も看板を見る。

 風は止んでいる。風鈴も鳴っていない。なのに、看板だけがもう一度揺れた。

 同時に、潮の匂いが強くなる。

 広場に海が流れ込んできたようだった。

 蒼の表情が変わった。

 透子はその横顔を見て、佐伯の部屋から戻った日のことを思い出した。水入れの中の水が青く光ったとき、蒼は言った。

 前兆だ。

「湊くん」

 透子が呼ぶと、蒼はすぐには答えなかった。

 彼は木箱を片づけ、立ち上がった。

「アトリエに行こう」

 声は静かだったが、急いでいるようにも聞こえた。

 アトリエへ向かう途中、前兆はさらに増えていった。

 路地の壁にかかった小さな鏡の前を通ったとき、透子は足を止めた。

 古い鏡だった。喫茶店の裏口近くにかけられている、身だしなみを整えるためのものだろう。縁は錆び、表面には細かな曇りがある。

 その鏡から、波音がした。

 ほんのかすかに。

 ざ、と水が引く音。

 透子は思わず鏡に近づいた。映っているのは、路地と、自分と、蒼だけだった。海など見えない。けれど鏡の奥で、もう一度波が引いたような音がした。

「聞こえた?」

 透子が聞くと、蒼は頷いた。

「うん」

「これも前兆?」

「たぶん」

 たぶん、と言いながら、蒼の顔はそうだと知っている人のものだった。

 外階段を上がると、アトリエの窓が開いていた。

 朝、閉めていったはずだと蒼が言った。鍵まではかけていなかったが、窓は確かに閉じていたはずらしい。カーテンは海風を受けて大きく揺れ、部屋の中へ潮の匂いを運んでいる。

 透子が部屋に入ると、机の上の水入れが目に入った。

 中の水は、薄く青く光っていた。

 昼間の光の反射ではない。  水そのものが、内側から青を発している。

 蒼は水入れの前に立ち、しばらく黙って見下ろしていた。

「水鏡の国の扉が近い」

 やがて、そう言った。

 透子は、その言葉を初めてはっきり聞いた気がした。

「水鏡の国」

 繰り返すと、蒼は小さく頷いた。

「僕が来たところ」

 それ以上、すぐには続けなかった。

 アトリエの中は明るいのに、急に遠い場所の影が差したようだった。

 透子は、水入れの青い光を見た。

 水鏡の国。

 名前だけなら美しい。  けれど蒼の声には、美しさよりも緊張があった。

「扉って?」

「行き来できる時期があるんだ。いつでもじゃない。水面が重なるみたいに、向こうとこっちが近づくときがある」

「それが今?」

「まだ開いてはいない。でも、近い」

 蒼は水面を見つめた。

「前兆が出始めたら、そう長くはない」

「どのくらい?」

「わからない。数日か、もう少し先か」

 透子は、言葉を失った。

 数日。

 その響きが、思ったよりも鋭く胸に刺さった。

 まだ何も聞いていないのに。  蒼が帰るとも言っていないのに。

 それでも、別れという言葉が、心の端に触れた。

 そのとき、階段を上がる足音がした。

 ゆっくりした、大人の足音。

 扉の前で、佳乃が顔を出した。

「やっぱり、ここにいたのね」

 彼女はいつもの紺色のエプロンをつけていた。けれど表情は、喫茶店で見せる柔らかなものとは少し違っている。落ち着いてはいるが、目元に緊張があった。

「佳乃さん」

 蒼が言う。

 佳乃は部屋に入り、水入れの青い光を見た。

「始まったのね」

「はい」

 透子は、ふたりを見比べた。

 佳乃は魔法のことを知っている。

 それは以前から薄々わかっていた。蒼を「少しだけ預かっている」と言ったこと。アトリエの管理人でありながら、蒼の事情に深く踏み込まないこと。魔具についても、直接聞かずに見守っていたこと。

 でも今、そのことがはっきりした。

「三崎さん」

 佳乃は透子を見た。

「少し、話してもいいかしら」

「はい」

 佳乃は机のそばに座らず、窓辺に立った。

 海を背にすると、その姿はいつもより少し遠い人のように見えた。喫茶店の店主ではなく、別の場所の秘密を預かっている大人。

「蒼くんは、数年前にこの街へ来たの」

 佳乃は言った。

「詳しいことは、私から話すことではないけれど。こちらで暮らせるように、私が少し手伝ってきた。アトリエを使わせているのも、その一つ」

 蒼は黙っていた。

 透子は頷くことしかできなかった。

「今日、手紙が届いたわ」

 佳乃はエプロンのポケットから、小さな封筒を取り出した。

 封筒と言っても、普通の紙ではなかった。

 薄い青灰色で、表面がわずかに透けている。紙というより、乾いた水の膜のように見える。封はされているが、糊の跡はない。縁には細かな波紋の模様が浮かんでいた。

 佳乃がそれを机の上に置くと、水入れの青い光が少しだけ強くなった。

「水鏡の国から」

 蒼が低く言った。

 佳乃は頷いた。

「私宛てに来たけれど、蒼くんに見せるべき内容だと思う」

 蒼は封筒を手に取った。

 指先が触れると、封筒の表面に薄い波紋が広がった。まるで水面に指を置いたようだった。透子は思わず目を凝らす。

 蒼が封を開ける。

 中から一枚の紙が出てきた。

 そこに書かれている文字は、透子には読めなかった。日本語ではない。アルファベットでもない。水の流れを線にしたような文字が、薄い青で浮かんでいる。

 けれど蒼には読めるらしい。

 彼は紙面を追い、途中で表情を硬くした。

「何て?」

 透子が聞くと、蒼はすぐには答えなかった。

 佳乃が静かに言った。

「向こうでも、波が乱れているそうよ」

「波?」

「こちらと向こうを隔てているもの、とでも言えばいいかしら」

 佳乃は説明しすぎないように言葉を選んでいるようだった。

「普段は穏やかに離れているの。でも、強い魔法が記憶や心に干渉すると、その波に揺れが出ることがある」

 透子は、佐伯の絵を思い出した。

 強すぎる光。  願望まで吸い込んだ絵。  その前から離れられなくなった父親。

「佐伯さんの絵のことですか」

 透子が言うと、蒼が小さく頷いた。

「たぶん」

 佳乃は、蒼の持つ手紙へ視線を落とした。

「蒼くんが持っている筆と絵の具は、本来、記憶と心を扱う職人が受け継ぐものだったそうよ」

 透子は木箱を見た。

 机の隅に置かれた、小さな木箱。  その中にある魔法の筆と絵の具。

 これまで、蒼はそれをただ持て余しているように見えた。使い方も、意味も、完全には教えられていないと言っていた。

「職人?」

 透子が聞くと、蒼が答えた。

「記憶を絵に残す人たちがいる。向こうでは、そういう役目があるらしい」

「らしい?」

「僕は、ちゃんと教わる前にこっちへ来たから」

 その言葉の奥に、まだ話されていない事情があることはわかった。

 透子は深く聞けなかった。

 佳乃が続ける。

「本来は、ただ心を動かす絵を描くための道具ではないの。記憶を支えるため、失われそうなものを静かに留めるためのもの。でも、扱いを間違えると、留めるのではなく閉じ込めてしまう」

 閉じ込める。

 その言葉が、部屋の中に重く落ちた。

 佐伯の絵。  陽菜の笑顔。  父親を絵の前に縫い止めた光。

 まさに、それだった。

 透子は胸が痛んだ。

「手紙には、何て書いてあるの」

 蒼は紙を見つめた。

「魔具の波が乱れている。持ち主は、戻って報告すること。必要なら、調律を受けること」

「調律?」

「魔具を整えることだと思う」

「戻るって……水鏡の国に?」

 透子の声は、自分でも少し硬く聞こえた。

 蒼はすぐに答えなかった。

 その沈黙で、透子は答えを知ってしまった。

 佳乃は静かに言った。

「扉が開く時期は限られているわ。前兆が出たなら、向こうもこちらも近づいている。手紙が来たということは、向こうは蒼くんを呼んでいるのだと思う」

「必ず、行かなきゃいけないんですか」

 透子は佳乃を見た。

 自分でも、責めるような声になっていることがわかった。

 佳乃は怒らなかった。

「私には決められないわ」

「蒼は?」

 透子は蒼を見る。

 蒼は手紙を持ったまま、海の方を見ていた。

 窓の外の海は、いつもと違って見えた。

 青い。

 ただの夏の海の青ではなかった。水面の奥から、薄い光が浮かび上がっている。遠くの水平線のあたりが、鏡のように揺れている。晴れているのに、まるで夜の水底を覗いているような青。

 透子には、それが前兆なのだとわかった。

 蒼は何も言わなかった。

 言えないのだ。

 透子に、まだ言えない。

 戻らなければならないかもしれないことを。

 次にいつ会えるかわからない場所へ行くことを。

 もしかしたら、もう会えないかもしれないことを。

 透子はそれを理解してしまい、胸の奥が冷たくなった。

 佳乃は手紙を机に置いた。

「急に決めなくていいわ。でも、時間はあまりないと思う」

 蒼は小さく頷いた。

 透子は、何も言えなかった。

 アトリエの中には、絵の具の匂いと潮風がある。  机の上には、開かれた手紙。  水入れには青い光。  窓の外には、いつもと違う海。

 蒼はその海を見ている。

 透子は、彼の横顔を見ていた。

 その表情が、遠くの何かに呼ばれているように見えて、透子は名前を呼ぶことができなかった。

 海は静かに青く光っていた。


 佳乃がアトリエを出ていったあとも、手紙は机の上に残っていた。

 薄い青灰色の紙。  水面のような文字。  封筒の縁に浮かんだ、細かな波紋。

 透子には読めない。  けれど、その紙がこの部屋の空気を変えてしまったことだけはわかった。

 窓の外では、海が青く光っている。

 夏の海の青ではない。もっと深く、もっと遠い場所の色だった。水平線のあたりが薄く揺れ、空と海の境目がいつもより曖昧に見える。晴れているはずなのに、光の奥に雨の気配があるようだった。

 蒼は、窓辺に立ったまま動かなかった。

 手紙を読んでから、彼の横顔はずっと遠くを向いている。

 それが、透子には嫌だった。

 目の前にいるのに、もうどこか別の場所へ行ってしまったように見えたからだ。

「湊くん」

 透子は声をかけた。

 蒼は少し遅れて振り返る。

「何?」

「何じゃない」

 思ったより冷たい声が出た。

 蒼は黙った。

 透子は机の上の手紙を見た。

「さっきから、何も言ってない」

「……ごめん」

「謝ってほしいわけじゃない」

「うん」

「じゃあ、話して」

 蒼は視線を落とした。

 それは、佐伯の部屋で魔法を抜こうとしたときの沈黙とは違っていた。あのときの蒼は、何をすべきかを探していた。今の蒼は、言うべきことを知っているのに、言えずにいる。

 透子には、それがわかった。

 だから余計に怖かった。

「水鏡の国の扉が近いって、言ったよね」

「うん」

「それは、どういう意味」

「向こうへ戻れる時期が近いってこと」

「戻れる?」

 透子はその言葉を拾った。

「戻らなきゃいけない、じゃなくて?」

 蒼はすぐには答えなかった。

 窓から入る風が、机の上の手紙の端をかすかに揺らした。紙の表面に波紋のような影が走る。水入れの中の青い光も、ゆっくりと揺れている。

「最初は、戻れる時期が来た、ってだけだった」

 蒼は言った。

「でも、手紙が来た。魔具の異変が向こうにも伝わっている。僕が持っている筆と絵の具の波が乱れてるって」

「それは、佐伯さんの絵のせい?」

「たぶん。あれだけじゃないかもしれないけど」

 蒼は木箱の方を見た。

 閉じられた木箱。  その中に、魔法の筆と絵の具が入っている。

 千枝の夫を描いた。  亡くなった犬を描いた。  閉店する喫茶店を描いた。  友人との帰り道を描いた。  陽菜を描いた。

 魔具は、そのたびに誰かの心へ触れた。

 そして最後に、触れすぎた。

「このまま放っておくと、どうなるの」

「わからない」

「また、ああいうことが起きる?」

「起きるかもしれない。起きないかもしれない。でも、僕には判断できない」

 蒼の声は静かだった。

 自分を責めるような響きはある。けれど、それだけではなかった。そこには、何かを見極めようとする硬さがあった。

「僕は、ちゃんと知らないまま使ってた。怖いと思いながら、嫌だと思いながら、それでも使った。うまくいったときは、少しだけ安心した。こういう使い方ならいいのかもしれないって」

 透子は黙って聞いていた。

「でも、知らないままじゃ駄目だった」

 蒼は、机の上の手紙を見た。

「この魔具が本来どういうものなのか。どう扱えばいいのか。どこからが記憶を支えることで、どこからが閉じ込めることなのか。僕は知らなきゃいけない」

「それを知るために、戻るの?」

 透子の声はかすかに震えた。

 蒼は、ゆっくり頷いた。

「たぶん、戻らなきゃいけない」

 言葉が落ちた。

 アトリエの中で、何かが静かに壊れたような気がした。

 透子はすぐに何も言えなかった。

 わかっていた。前兆だと言われたときから、どこかでわかっていた。蒼の来た場所へ続く扉が近いなら、それは蒼が帰るかもしれないということだ。

 それでも、本人の口から聞くと違った。

 戻る。

 その言葉は、帰る、より遠かった。

「いつ」

 透子は聞いた。

「まだ、はっきりとは」

「近いって、どれくらい」

「数日かもしれない。梅雨が明けるころには、たぶん」

 梅雨が明けるころ。

 窓の外の海が青く光っている。

 透子は、湿った風の中に混じる夏の匂いを感じた。もうすぐ長い雨の季節が終わる。学校では終業式が近づき、夏休みの予定が話題になり始めている。

 その夏が始まるころ、蒼はいなくなるかもしれない。

「帰らなきゃいけないの」

 透子は静かに尋ねた。

 自分でも驚くくらい、声は平らだった。

 もっと取り乱すと思っていた。怒るかもしれない。行かないでと言うかもしれない。何かを責めるかもしれない。

 でも、言葉はひどく静かに出た。

 蒼はその静けさを受け止めるように、少しだけ目を伏せた。

「これは、罰じゃない」

「罰?」

「佐伯さんのことで失敗したから帰らされる、とかじゃない。そういうことじゃない」

「じゃあ何」

「僕が決めること」

 蒼はそう言った。

 透子は胸が痛くなった。

 誰かに命じられたと言われた方が、まだ楽だったかもしれない。水鏡の国からの命令だから仕方ない。魔具の異変だから戻らなければならない。そういう理由なら、透子は怒る相手を外に置けた。

 でも、蒼は自分で決めると言った。

「僕は、魔法が嫌だった」

 蒼は窓の外を見た。

「自分の手で描いた絵じゃない気がした。魔法が混ざると、自分の気持ちまで勝手に出るのが怖かった。だから、なるべく使わないでいた。知らない人を路上で描いて、思い入れが強くならないようにして」

 透子は、初めて会った日の蒼を思い出した。

 広場の端。  折りたたみ椅子。  似顔絵の札。  親子連れ。  布で隠されたおばあさんの絵。

 あのとき、蒼は知らないものを描こうとしていた。自分の中の魔法から逃れるために。

「でも、それだけじゃ駄目だってわかった」

 蒼は続けた。

「逃げていても、魔法は消えない。魔具を閉じ込めていても、僕の中からなくなるわけじゃない。なら、ちゃんと向き合うしかない」

「向き合うために、水鏡の国へ戻る」

「うん」

「戻ったら、どうなるの」

「わからない」

「また、わからない」

 透子の声が少しだけ荒くなった。

 蒼は言い返さなかった。

 透子は唇を噛んだ。

「次にこっちへ来られるのは?」

 聞きたくなかった。

 でも、聞かずにはいられなかった。

 蒼は手紙へ視線を落とした。

「わからない」

 透子は目を閉じた。

「数日とか、数週間とかじゃないんだよね」

「うん」

「数年?」

「かもしれない」

「それ以上?」

「……かもしれない」

 部屋の中の空気が重くなった。

 透子は、自分の手が冷えていることに気づいた。鞄の肩紐を握っている指先に力が入っている。ゆるめようとしても、うまくできなかった。

「もう会えないかもしれないってこと?」

 蒼は答えなかった。

 それが答えだった。

 透子は笑いそうになった。

 もちろん、楽しいからではない。あまりにも急で、あまりにも馬鹿げていて、どう反応すればいいのかわからなかった。

 魔法。  水鏡の国。  扉。  前兆。  数年後か、それ以上か、わからない。

 そんな言葉で、蒼がいなくなるかもしれないことを説明されている。

 現実感がなかった。

 でも、目の前の蒼の表情だけが現実だった。

「言えなかったんだ」

 透子は言った。

 蒼は小さく頷いた。

「ごめん」

「謝らないで」

「でも」

「謝られたら、怒れなくなる」

 声が震えた。

 蒼は口を閉じた。

 透子は窓の外を見た。

 海はまだ青く光っている。潮の匂いが強い。遠くで船の汽笛が鳴った。街はいつも通りなのに、アトリエの中だけ別の時間に入ってしまったようだった。

「止めたい」

 透子は言った。

 蒼がこちらを見る。

「本当は、止めたい」

 初めて、少しだけ感情が声に出た。

「行かないでって言いたい。魔具なんて置いていけばいいとか、こっちで何とかすればいいとか、佳乃さんに頼めばいいとか、そういうことを言いたい」

 言葉にした途端、胸が苦しくなった。

「でも、湊くんが戻る理由も、わかってしまう」

 それが一番つらかった。

 蒼が逃げるために行くなら、責められた。  何も言わずにいなくなるなら、怒れた。  誰かに命じられて仕方なく行くなら、泣いて止められたかもしれない。

 でも蒼は、自分の絵と魔法に向き合うために戻ろうとしている。

 それは、透子が蒼にずっと求めていたことでもあった。

 魔具に飲み込まれず、自分の手で描くこと。  魔法を嫌うだけではなく、ちゃんと知ること。  逃げずに、自分の絵を描くこと。

 それを彼が初めて選ぼうとしている。

 だから、止める言葉が透子の中で崩れてしまう。

「ずるいね」

 透子は呟いた。

「何が?」

「行く理由が、ちゃんとしてるところ」

 蒼は困ったように目を伏せた。

「ちゃんとしてるかは、わからない」

「してるよ」

 透子は言った。

「だから、困る」

 ふたりはしばらく黙っていた。

 水入れの青い光が、机の上に薄く映っている。手紙の文字は、透子には読めないままだ。けれどその青い線は、少しずつ薄くなったり濃くなったりして、呼吸しているようだった。

 やがて蒼が言った。

「少し、外に出る?」

 透子は頷いた。

 アトリエを出て、ふたりは坂道を下った。

 商店街を抜け、港へ続く道へ出る。夕方にはまだ早い時間だったが、空には雨雲が残っていた。青い空の端に濃い灰色があり、その隙間から夏の光が差している。

 海辺の道は、湿っていた。

 前日の雨がまだ堤防の隙間に残っている。波は穏やかで、低い音を立てながら岸に寄せていた。遠くの船は小さく、空と海の境目は薄く霞んでいる。

 透子と蒼は、堤防のそばに並んで立った。

 ここへ二人で来るのは、意外と少なかった。アトリエから海は見えていたし、広場からも港は見えた。けれど、こうして海のすぐそばまで降りてくることはあまりなかった。

「水鏡の国って」

 透子は海を見ながら言った。

「海の向こうにあるの?」

「向こう、というより、重なってる」

「重なってる?」

「うん。水面に映った景色みたいに。手を伸ばしても触れられないけど、条件が合うと、向こう側へ行ける」

「よくわからない」

「僕も、説明はあまり得意じゃない」

「知ってる」

 少しだけ、いつもの会話に戻った。

 けれど、それはすぐに消えた。

 波の音が間に入る。

「こっちに来たときも、扉が開いたの?」

「うん」

「自分で来たの?」

 蒼は少し迷った。

「半分は」

「半分?」

「向こうにいるのが嫌だった。魔具を受け継ぐことも、職人になることも、よくわからないまま決められるのが嫌だった。だから、扉が開いたときにこっちへ来た」

 初めて聞く話だった。

 透子は蒼の横顔を見る。

「逃げてきたの?」

「そうだと思う」

 蒼は否定しなかった。

「それで、こっちで知らない人を描いてたんだ」

「うん。知らないものを描いていれば、自分の中の魔法から離れられる気がした」

「離れられた?」

「全然」

 蒼は小さく笑った。

 その笑いは、少し苦かった。

「結局、どこにいても自分の手は自分のものだから」

 透子は、その言葉を胸の中で繰り返した。

 自分の手は自分のもの。

 逃げても、魔法を使っても、使わなくても。  他人の技法を真似しても、評価される絵を描いても。

 それでも、自分の手で描いていることからは逃げられない。

「私、まだ何も描けてない」

 透子は言った。

 蒼がこちらを見る。

「佐伯さんのあと、何か描かなきゃって思ってる。でも、何を描いても違う。あの部屋のことも、湊くんが描いた佐伯さんの絵のことも、何も描けない」

「描けるよ」

 蒼はすぐに言った。

 透子は少し笑った。

「簡単に言う」

「簡単じゃないけど、描けると思う」

「どうして」

「君は、見てるから」

「見るだけならできる」

「見るだけじゃない。苦しくても、なかったことにしない」

 透子は返事をしなかった。

 なかったことにしない。

 蒼は以前も似たようなことを言った。石の絵の悲しさを感じたとき、赤い丸や青い三角を見たとき。透子は否定しようとしながらも、自分が感じたことをなかったことにはしなかった。

 でも、それを絵にできるかは別の話だった。

「信じられない」

 透子は正直に言った。

「描けるって言われても、全然信じられない」

「うん」

「そこは、もう少し励ますところじゃないの」

「信じられないものは、仕方ないと思う」

「本当に慰めないね」

「慰めても、たぶん怒るでしょ」

「怒る」

 透子は小さく笑った。

 笑えたことに、自分で少し驚いた。

 海風が吹いた。

 制服のスカートが揺れ、髪が頬にかかる。蒼はそれを見て、何か言いかけたが、やめた。

 その沈黙が、いつもより長く感じた。

 言いたいことがあるのに言えない。  聞きたいことがあるのに聞けない。

 そんな時間ばかりが増えていく。

 アトリエへ戻るころ、空の雨雲は少しずつ薄くなっていた。

 西の方に明るい裂け目ができている。そこから差す光が、海面を白く照らしていた。街全体が湿ったまま光を浴びて、輪郭だけが夏に近づいている。

 部屋に戻ると、蒼は木箱を開いた。

 透子は少し身構えた。

 蒼は魔法の筆を取り出し、机の上に置いた。次に金属ケースを開く。絵の具は静かだった。佐伯の絵を描いたときのような強すぎる反応はない。ただ、青だけが少し深く沈んで見えた。

「これ」

 蒼は筆に触れた。

「もし僕が戻るなら、置いていくことになるかもしれない」

 透子は驚いた。

「持って帰るんじゃないの」

「調律に必要なのは、たぶん魔具そのものじゃなくて、核の方だと思う。筆と絵の具の形は、こちらに残せるかもしれない」

「よくわからない」

「僕もまだ、はっきりはわからない」

 蒼は少しだけ苦笑した。

「ただ、魔法の力は抜けると思う。残るとしても、ただの筆と絵の具に近くなる」

「それを、私に?」

 蒼は答えなかった。

 けれど、その沈黙は否定ではなかった。

 透子は机の上の筆を見た。

 古い木軸。  黒に近い毛先。  何度も絵を描き、記憶を閉じ込め、人の心に触れてきた道具。

 魔法の力を失ったら、それはただの筆になるのだろうか。

 それでも、透子は触れるのが怖かった。

「私には使えないよ」

「うん」

「魔法も使えないし、まだ自分の絵も描けてない」

「だから、かもしれない」

「どういう意味」

「魔法がなくなった筆なら、ただ描くしかないから」

 透子は言葉を失った。

 ただ描くしかない。

 その言葉は、簡単で、残酷だった。

 魔法の筆なら、心を込められる。  魔法の絵の具なら、記憶を色にできる。

 でも魔法がなくなったら、残るのは筆と絵の具だけだ。

 自分の手で描くしかない。

「まだ、決めたわけじゃない」

 蒼は言った。

「でも、考えてる」

 透子は頷けなかった。

 受け取るとも、受け取れないとも言えなかった。

 その筆が残るということは、蒼がいなくなるということだ。そんなものを今、考えたくなかった。

 けれど蒼がその話をしたのは、彼なりに別れを逃げずに見ようとしているからだとわかった。

 だから、透子は怒れなかった。

 アトリエの空気は、夕方へ傾いていった。

 水入れの青い光は、少し弱くなっている。手紙は机の端に置かれたまま。木箱は開いたまま。筆と絵の具は、静かにふたりの間にある。

 蒼は窓の外を見た。

 透子も同じ方を見る。

 海の向こうで、雨雲が割れ始めていた。

 灰色の雲の裂け目から、強い光が射している。まだ夕焼けには早い。けれどその光は白く、まっすぐで、夏のものだった。梅雨の重たい空を内側から押し開くように、海面へ落ちていく。

「扉が開く日は」

 蒼が言った。

 透子は振り向かなかった。

 振り向くと、顔が崩れそうだった。

「たぶん、もうすぐだ」

 その言葉は、静かだった。

 けれど、避けようのないものとして部屋の中に満ちた。

 透子は、喉の奥が痛くなるのを感じた。  目の奥も熱い。  それでも、泣かなかった。

 泣いたら、蒼を止める言葉が溢れてしまいそうだった。

「わかった」

 透子は言った。

 声は、最後だけ少し震えた。

 蒼は何も言わなかった。

 窓の外で、夏の光が雨雲を割っていく。

 長かった梅雨が、終わろうとしていた。