終業式の朝、空はあまりにも晴れていた。
梅雨が明けた、とニュースが言っていた。
テレビの中の気象予報士は、明るい声で今年の夏の始まりを告げていた。平年より少し遅いとか、これからしばらく厳しい暑さが続くとか、熱中症に注意だとか、そういうことを、白い歯を見せながら話している。
透子は食卓の前で、半分だけ冷めた味噌汁を見ていた。
湯気はもうほとんど立っていない。表面に浮いた小さな油が、朝の光を受けて薄く光っている。母が向かいで何かを言った。
「終業式、午前中だけでしょう?」
「うん」
「お昼、家で食べる?」
「たぶん」
「たぶん?」
「……帰ると思う」
自分の声は、普段とそう変わらないように聞こえた。
母もそれ以上、深く聞かなかった。台所で水を流す音がする。食器の触れ合う音。冷蔵庫の扉が閉まる音。すべてがいつも通りだった。
いつも通りだから、苦しかった。
蒼がいなくなってから、二日が経っていた。
二日。
数字にすると、あまりに短い。 けれど透子には、ずっと長い時間が過ぎたようにも、あの夜から一歩も動けていないようにも感じられた。
夜の港。 雨上がりの石畳。 青い水面。 蒼が振り返った顔。 手の中に残された、布に包まれた筆と絵の具。
それらは、まだ昨夜のことのように鮮明だった。
けれど水鏡の国への前兆は、もう消えていた。
鏡から波音はしない。 水たまりに見知らぬ海は映らない。 潮の匂いも、ただの海辺の街の匂いに戻った。
世界は、蒼がいなくなったことを、何もなかったように受け入れていた。
透子だけが、まだ受け入れられないままそこにいた。
学校へ向かう道は、夏の光で白かった。
アスファルトは朝から熱を持ち始めている。家々の庭では、雨を吸いすぎた紫陽花が重たそうに頭を下げ、その横で朝顔の葉が青く光っていた。蝉はまだ本格的には鳴いていない。けれど、空気の奥で、夏が音を立てる準備をしているようだった。
透子は坂道を上った。
港へ向かう道とは反対方向。学校へ続く、いつもの道。
けれど、途中で一度だけ足が止まりそうになった。
カーブミラーがあった。
数日前、その表面で波が揺れた鏡。今はただ、制服姿の透子と、青い空と、通学路を歩く生徒たちを映しているだけだった。
何もない。
それが、胸に刺さった。
学校は、夏休み前の落ち着かなさで満ちていた。
教室の扉を開けると、すでに何人かの生徒が集まっていた。机の上に広げられた予定表。旅行の話。部活の合宿。花火大会。補習に引っかかった男子の嘆き。廊下から聞こえる笑い声。
「透子、おはよ」
由衣が手を振った。
「おはよう」
「今日暑くない? 梅雨明けた瞬間これって、夏、やる気ありすぎ」
「うん」
「終業式、体育館だよね。絶対暑い」
「うん」
透子は自分の席に鞄を置いた。
返事はできる。
笑うタイミングも、相槌の場所もわかる。
でも、自分の声がどこか遠くで鳴っているようだった。由衣はしばらく透子を見ていたが、やがて少し声を落とした。
「大丈夫?」
透子は顔を上げた。
「何が?」
「いや、最近ずっとぼーっとしてるから」
「暑いからかも」
「まだ朝だけど」
「じゃあ、夏休み前だから」
「それ、理由になる?」
由衣は苦笑した。
透子も、少しだけ口元を動かした。
「なるんじゃない」
それ以上は、何も言わなかった。
由衣も、聞かなかった。
終業式の体育館は、本当に暑かった。
大きな扇風機が何台も回っていたが、湿った空気をかき混ぜるだけだった。校長の話は長く、生徒指導の先生は夏休み中の注意事項を読み上げ、誰かが後ろで小さくあくびをした。
透子は、前に並ぶ生徒たちの背中を見ていた。
白いシャツ。 濃紺の制服。 汗で少し張りついた襟元。 床に落ちた体育館の光。
描こうと思えば、描ける。
奥へ向かう列のリズム。背中の形の違い。窓から入る光の角度。体育館の床に反射する白。暑さを表すなら、輪郭を少し滲ませる。色は黄色を強くしすぎず、白と灰色の中に熱を置く。
そこまで考えて、透子は目を閉じた。
まただ。
何を見ても、すぐに絵の組み立て方を考える。
でも、描きたいわけではない。 ただ、そう見てしまうだけ。
昔なら、それを自分の力だと思えたのかもしれない。今は、その力が空回りしているように感じた。
終業式が終わり、教室へ戻ると、担任が通知表と夏休みのプリントを配った。
教室の空気は一気に軽くなる。
「明日から休みだー」
「部活あるけどね」
「宿題多すぎない?」
「花火、いつ行く?」
声が飛び交う。
由衣が通知表を見ながら小さく叫んだ。
「数学、助かった!」
「よかったね」
「透子は?」
「普通」
「普通って何。絶対普通じゃないやつ」
由衣は透子の机に寄りかかり、夏休みの予定表を覗き込んだ。
「美術部、前半けっこうあるね」
「うん」
「透子、出る?」
「わからない」
「わからない?」
由衣が不思議そうにした。
透子は予定表を見た。
制作日。 講評日。 校外スケッチ。 作品提出日。
以前なら、迷わず参加すると言った。描くことは、透子の生活の中心だった。どれだけ自分の絵を信じられなくても、描くこと自体をやめようとは思わなかった。
でも今は。
スケッチブックを開くことさえ、怖い。
描けば、蒼のことを思い出す。 描かなければ、自分が空っぽになる。
どちらにも進めない。
「少し考える」
透子は答えた。
由衣は何か言いたそうにしたが、チャイムが鳴り、担任が最後の挨拶を始めた。
解散後、美術室へ行った。
行かないつもりだったのに、足が勝手に向かった。
美術室は、終業式の日のせいか人が少なかった。窓が開け放たれ、夏の風がカーテンを大きく揺らしている。机の上には、誰かが使った絵の具皿が残っていた。乾きかけた青と緑が、端の方でひび割れている。
透子は、自分の席に座った。
スケッチブックを開く。
白いページ。
鉛筆を持つ。
何も描けない。
手が止まるというより、何を描くために手を動かせばいいのかわからなかった。
蒼がいない。
そのことが、白い紙の上に大きく広がっていた。
ここに蒼がいたわけではない。彼はこの学校の生徒ではない。美術室で一緒に描いたこともない。なのに、窓から入る光を見ると、アトリエの窓辺を思い出す。水入れを見ると、青く光った水面を思い出す。誰かの鉛筆の音を聞くと、蒼が透子の横顔を描こうとしていた音を思い出す。
透子は鉛筆を置いた。
榊が奥の棚を整理していたが、透子には声をかけなかった。
それがありがたかった。
しばらくして、透子はスケッチブックを閉じた。
もう絵を描くのをやめよう。
その考えは、突然浮かんだわけではなかった。
蒼が去った夜から、ずっと胸の奥にあったものだ。描けないなら。描けば痛いなら。自分の絵が空っぽだと思うことにも、心を込められないことにも、誰かの悲しみを扱うことの重さにも、もう耐えられないなら。
やめてしまえばいい。
賞を取る絵なら描ける。 技法を真似ることもできる。 でも、それに何の意味があるのだろう。
蒼は、自分の絵と向き合うために行った。
透子は、何も描けないまま残された。
それが、ひどく惨めだった。
学校を出ると、夏の光がさらに強くなっていた。
終業式を終えた生徒たちが、校門の前で騒いでいる。自転車に乗る男子たち。日傘を差す女子。部活へ向かう運動部の掛け声。誰かがアイスを食べに行こうと言っている。
透子は、その間を抜けて歩いた。
坂道を下るか、家へ帰るか迷った。
結局、家へ帰った。
その日は、アトリエへ行かなかった。
行けば、椅子が空いているのを見ることになる。
蒼が座っていた窓際の椅子。 スケッチブックを置いていた机。 木箱があった場所。 カーテンの揺れ。
そこに蒼がいないことを、まだ見たくなかった。
家に帰ると、母が昼食を用意していた。冷たいそうめんだった。透明なガラスの器に氷が浮いている。薬味のねぎと、生姜。夏休みの始まりらしい食卓だった。
透子は食べた。
味はした。
けれど、何を食べているのか、途中でわからなくなった。
その夜、布に包まれた筆と絵の具を机の引き出しにしまった。
開けることはできなかった。
触れれば、蒼の手の温度まで思い出してしまいそうだった。
夏休み初日の朝、透子はいつもより遅く目を覚ました。
カーテンの隙間から、強い光が差していた。
部屋の中が、白く照らされている。机の上のスケッチブックも、壁のカレンダーも、椅子にかけた制服も、すべてが夏の朝の中にあった。
長い休みが始まった。
学校へ行かなくていい。 授業もない。 終礼もない。 時間はたくさんある。
そのはずなのに、透子の心は沈んでいた。
することがなかった。
描けばいい。 そう思った。
でも描けない。
宿題をすればいい。 部屋を片づければいい。 美術部へ行けばいい。 買い物に出ればいい。
どれも、遠い。
透子はベッドの上でしばらく座っていた。
目覚めてすぐ、胸の中に薄い重さがある。理由はわかっている。けれど、わかっていてもどうしようもない。蒼がいない。今日はアトリエに行っても、彼はいない。坂道に行っても、広場に行っても、港に行っても。
ひとりでも平気。
あの夜、自分はそう言った。
今、その言葉を思い出すと、少し笑いそうになる。
下手すぎる嘘だった。
朝食を食べ、着替えた。
白い半袖のブラウスに、薄い青のスカート。制服ではない服を着ると、本当に夏休みが始まったのだと思わされる。
母が買い物に行くと言ったが、透子は一緒には行かなかった。
「少し歩いてくる」
そう言って家を出た。
行き先は決めていなかった。
ただ、家にいたくなかった。部屋にいると、引き出しの中の筆と絵の具の気配ばかりを感じてしまう。開けていないのに、そこにあることだけがわかる。
街は明るかった。
夏休み初日の街は、昨日までと違う顔をしていた。子どもたちが自転車で走り、商店街には麦わら帽子の親子連れがいる。喫茶店の窓には、氷入りのアイスコーヒーのメニューが貼られていた。八百屋の前では、とうもろこしが山のように積まれている。
光が、どこにでもあった。
白い壁。 濡れたように光るトマト。 金物屋の風鈴。 魚屋の氷。 坂道の石畳。 遠くに見える海。
あふれるような夏の光だった。
その明るさが、透子にはつらかった。
世界は何も失っていないように輝いている。
蒼がいなくなったことなど知らない。 透子が何も描けないことも知らない。 港の水面が開き、ひとりの少年が別の世界へ消えたことも知らない。
普通に朝が来て、普通に店が開き、普通に夏休みが始まった。
透子だけが、そこから置き去りにされている。
広場へ出た。
蒼が初めて座っていた場所。
そこには、何もなかった。
折りたたみ椅子もない。 木箱もない。 似顔絵の札もない。
ただ、石畳と花壇と、白い壁の喫茶店があるだけだった。
透子は広場の端に立った。
ここで親子連れが絵を受け取って喜んでいた。 ここで布に隠されたおばあさんの絵を見た。 ここで石の絵に悲しさを感じた。 ここで蒼が、魔法だよ、と言った。
今は、何もない。
喫茶店の扉が開き、佳乃が出てきた。
透子を見ると、彼女は少しだけ表情を柔らかくした。
「おはよう」
「おはようございます」
「暑いわね」
「はい」
短い会話。
佳乃は透子の様子を見て、何かを察したようだった。けれど、何も聞かなかった。
「アトリエの鍵」
佳乃はエプロンのポケットから、小さな鍵を取り出した。
古い真鍮の鍵だった。
「預かっておくつもりだったけど、あなたが持っていてもいいと思う」
透子は鍵を見た。
「私が?」
「蒼くんも、そうしてほしいと言っていたわ」
その名前が出た瞬間、胸が痛んだ。
佳乃は鍵を透子の手に置いた。
「無理に行かなくてもいい。行きたくなったときに使いなさい」
透子は鍵を握った。
小さくて、少し温かかった。佳乃の手の温度が残っている。
「ありがとうございます」
透子はそれだけ言った。
広場を離れ、商店街へ戻る。
光が強くなっていた。
さっきよりも、ずっと。
白い壁が眩しい。ガラス窓が反射する。車のフロントガラスに空が光る。水のない石畳まで、水面のように輝いて見える。
透子は、急に息が苦しくなった。
光が多すぎる。
あの夜、水鏡の国へ続く青い光が消えたあと、海辺には普通の夜だけが残った。今、街には普通の夏だけがある。どちらも、透子には耐えがたかった。
ひとりでも平気。
言葉が胸の中で砕けた。
全然平気ではなかった。
透子は歩く速度を上げた。
どこへ向かっているのか、自分でもわからない。けれど、商店街の明るさから逃げたかった。夏休みの声から、風鈴の音から、アイスコーヒーの看板から、親子連れの笑い声から逃げたかった。
足が自然に坂道へ向かった。
海の方ではない。 アトリエの方。
白い建物が見えてくる。
外階段。錆びた手すり。開いていない二階の窓。揺れていないカーテン。
透子は、ほとんど走っていた。
息が上がる。 夏の空気が喉に熱い。 手の中の鍵が汗で湿る。
外階段を上がり、アトリエの扉の前に立った。
扉は閉まっている。
中には誰もいない。
透子は鍵を握りしめた。
小さな真鍮の鍵が、掌に食い込む。
この扉を開ければ、蒼がいない部屋がある。 窓辺の椅子が空いている。 机の上には、もう木箱もない。 海だけが見える。
それでも、ここへ来てしまった。
逃げるように。 縋るように。
透子は鍵穴を見つめた。
まだ、扉は開けていない。
海の方から、夏の風が吹いた。 絵の具の匂いが、扉の向こうからかすかに漂ってきた気がした。
鍵は、なかなか回らなかった。
古い真鍮の鍵を鍵穴に差し込んで、透子は一度、息を止めた。汗で湿った指先が滑る。外階段の手すりには夏の熱が残っていて、背中には海からの風が当たっていた。
もう一度、ゆっくり力を込める。
かちり、と小さな音がした。
扉が開く。
中から、乾いた絵の具の匂いがした。
透子はしばらく、その場に立ったままだった。
アトリエは、何も変わっていなかった。
海側の大きな窓。 薄い白いカーテン。 古い木の床。 壁際の棚。 作業机。 窓辺の椅子。 床に染み込んだ、いくつもの絵の具の跡。
何も変わっていない。
それなのに、部屋は空っぽだった。
蒼がいない。
それだけで、部屋のすべてが違って見えた。
窓は閉まっていた。けれど、隙間から入り込む潮風で、カーテンの裾がかすかに揺れている。夏の光が布を透かし、床の上に柔らかな白い影を落としていた。机の上には、何も置かれていない。水入れも、鉛筆も、スケッチブックも、木箱もない。
窓辺の椅子だけが、こちらを向いていた。
そこに、蒼が座っていた。
そう思った瞬間、透子は目を逸らした。
もちろん、誰もいない。
椅子の背にかかっていた白いシャツもない。スケッチブックを膝に乗せて、困ったように鉛筆を持つ少年もいない。透子が「親指が短い」と言えば振り返る声もない。
ただ、椅子だけがある。
空いた椅子。
それだけで、喉の奥が痛くなった。
透子は扉を閉め、部屋の中央まで歩いた。
床が小さく鳴る。
その音も、以前と同じだった。
窓を開けると、海からの風が一気に入ってきた。カーテンが大きく膨らみ、机の上の埃が光の中で舞った。外には夏の海があった。青く、明るく、どこまでも現実の海だった。
もう、水鏡の国の光はない。
見知らぬ水面も、細い月も、青い波紋もない。 ただの港。 白く光る堤防。 遠くの船。 夏の空。
それがまた、透子を苦しくさせた。
あの夜のことが、すべて夢だったように思えてしまうから。
蒼も、魔法も、水鏡の国も、青い扉も。
けれど、夢ではない。
透子の手の中には、まだ布包みがあった。
昨夜、港で受け取ったもの。
魔法の力を失った筆と絵の具。
透子は机の前に立ち、布包みをそっと置いた。
結び目をほどく。
中から、古い筆と、小さな金属ケースが現れた。
透子はしばらく、それを見つめた。
初めて見たとき、この筆は不思議な気配をまとっていた。近づくだけで胸の奥が少し震えた。金属ケースの絵の具は、開く前から色の奥に光を隠しているようだった。
今は違う。
筆は、ただの筆だった。
木の軸は少し使い込まれていて、毛先には丁寧に洗われた跡がある。金属ケースの中の絵の具は、乾いて小さく縮んでいる。青も赤も黄も白も、光を持っていない。
透子には、それがわかった。
魔法の煌めきは、もうない。
少なくとも、透子の目には見えない。
それは、ただの筆で、ただの絵の具だった。
その事実に、胸が沈んだ。
同時に、ほんの少しだけ安堵した。
魔法はない。
なら、これで描かれる絵は、誰かの記憶を勝手に閉じ込めたりはしない。見る人の心を強く引き寄せたりもしない。誰かを過去に縫い止めることもない。
ただの絵になる。
逃げ場のない、ただの絵。
透子は椅子に座った。
蒼がいつも使っていた椅子ではなく、机の反対側の椅子にした。窓辺の椅子には、まだ座れなかった。
机の下には、古いキャンバスが数枚立てかけられていた。蒼が置いていったものか、もともとアトリエにあったものかはわからない。透子はその中から、小さめのキャンバスを一枚選んだ。
白い表面。
まだ何も描かれていない。
そこに、蒼を描こうと思った。
忘れないために。
あの夜の港で見た顔。 青い光の中で振り返った目。 最後に、ほんの少しだけ微笑んだ口元。
それを描けば、少しは残る気がした。
忘れたくなかった。
写真はない。 蒼がこの世界にいた証拠は、ほとんど残っていない。
透子の記憶の中にしか、蒼はいない。
それが怖かった。
千枝が言っていた。
写真はあるのに、遠くなるのだと。 写真を見ても、写真を見ているだけになるのだと。
透子には写真さえない。
だから描こうと思った。
蒼の笑顔を。 忘れないように。
透子は筆を手に取った。
軽い。
魔法の筆だったころの重みはなかった。 いや、本当は前から重さなど変わっていないのかもしれない。透子が勝手に、そこに気配を感じていただけなのかもしれない。
水入れを用意し、絵の具を湿らせる。
青が少し溶けた。 次に、灰色。 それから、肌の色を作ろうとして、透子の手が止まる。
蒼の肌の色。
白いシャツの襟元。 海風に少し焼けた頬。 雨の日の薄い光の中で見た横顔。 佐伯の部屋から戻ったあとの青ざめた顔。 港で別れた夜、青い水面に照らされた顔。
どれが本当の色なのか、わからない。
透子はまず、輪郭を描こうとした。
鉛筆で下描きする。
額から鼻筋へ。 鼻先から唇へ。 顎へ。
何度も見てきたはずだった。
あれほど近くで、あれほど何度も。
なのに、線が違う。
蒼の顔にならない。
鼻が少し高すぎる。顎が鋭すぎる。目の位置が違う。髪の流れも違う。透子は消しゴムを取った。線を消す。もう一度描く。また違う。消す。描く。消す。
紙の表面が少し荒れていく。
透子は苛立った。
得意なはずだった。
人の顔を描くことも、横顔を取ることも、構造を読むことも。蒼にだって何度も教えた。目の位置、鼻の角度、顎の影。どうすれば似るのか、どうすれば印象を捉えられるのか、知っているはずだった。
なのに、描けない。
蒼の顔が、紙の上で別人になる。
透子は、展示会の絵を真似したときのように、頭の中で分析し始めた。
蒼の髪は黒に近いが、光を受けると青く見える。顔立ちは細い。目は切れ長すぎず、まぶたに少し影がある。笑うときは口元より先に目元が動く。困ると、視線を少し下げる。筆を持つときは、右手の中指に力が入る。
ひとつずつ、形にしようとする。
でも、うまくいかなかった。
それらは情報だった。
蒼ではなかった。
透子は筆を置いた。
キャンバスの上には、途中で崩れた横顔がある。似ていない。技術的にも中途半端だ。評価される絵にはならない。誰が見ても、まだ迷っている絵だとわかる。
透子は目を閉じた。
違う。
これでは何も残らない。
顔を正確に描けば、蒼が残るわけではない。 似せれば、忘れないでいられるわけではない。
千枝が欲しかったのも、写真のような顔ではなかった。 マルの飼い主が欲しかったのも、毛並みの正確さではなかった。 佐伯が間違えたのも、笑顔を完璧に取り戻そうとしたからだった。
透子は、ずっと見ていたはずだった。
それなのに、自分のことになると、すぐに形へ逃げてしまう。
蒼の顔を描くのではない。
蒼を思い出すのだ。
透子は、ゆっくり息を吸った。
海の匂いがした。
蒼の声を思い出す。
魔法だよ、と言ったときの、静かな声。 信じなくてもいい、と言ったときの声。 君は見てる、と何度も言った声。 最後に、透子なら大丈夫と言った声。
蒼の手を思い出す。
鉛筆の跡が残った指。 魔法の筆を持つときの慎重な手つき。 佐伯の背中を描いたとき、震えながらも止まらなかった手。 透子の横顔を描こうとして、何度も線を消した手。
蒼の顔を思い出す。
魔法が混ざるのを嫌がった顔。 千枝の夫の絵を描く前に迷った顔。 陽菜の絵の前で青ざめた顔。 普通の鉛筆で佐伯を描いたときの、苦しそうな横顔。 雨上がりの港で、強がりを見抜いても否定しなかった顔。
蒼の不器用な笑い方を思い出す。
褒めると困ったようにする顔。 透子に「親指が短い」と言われたときの顔。 空の灰色に青を残すと教えられて、本当にメモしたときの顔。 透子を描けずに、光が滲んでしまったときの顔。
思い出すほど、胸が痛くなった。
けれど、逃げなかった。
透子は消しゴムを手に取らなかった。
似ていない線を、消さなかった。
そのまま、筆を取った。
評価される構図も考えなかった。 正しい色も考えなかった。 上手い線も、きれいな余白も、見栄えのする光も考えなかった。
ただ、蒼を思った。
筆を水に浸す。
青を溶く。
その青は、水鏡の国の青ではなかった。魔法の光もない。ただの水彩の青。けれど、透子はそこへ少しだけ灰色を混ぜた。曇った日の海の色。アトリエの窓から見た、蒼の背中の向こうにあった海の色。
キャンバスに置く。
線は震えた。
けれど、構わなかった。
透子は蒼の輪郭を正しく描こうとするのをやめた。代わりに、彼が海を見ていたときの空気を置いた。横顔の向こうに、静かな青。髪には、夏の光ではなく、雨上がりの湿った影。目元には、何かを言わずに飲み込んだ沈黙。
それは肖像画としては、曖昧だった。
蒼に似ているかどうかも、わからない。
でも、少しずつ蒼に近づいていく気がした。
透子は、白を取った。
蒼のシャツの白ではない。 アトリエのカーテンの白。 港の夜に消えた光の白。 まだ言えなかった言葉の白。
キャンバスの端に置く。
次に、ほんの少し赤を混ぜた。
頬の色ではない。 言えなかった「行かないで」の色。 街灯の下で呟いた「平気」の嘘の色。 泣かなかった目の奥に残った熱の色。
筆先が震えた。
視界が滲む。
最初は、海の光のせいだと思った。窓から入る夏の光が強くて、目が眩んだのだと思った。
けれど違った。
涙だった。
気づいた瞬間、堰が切れそうになった。
透子は唇を噛んだ。
泣きながら描くなんて、馬鹿みたいだと思った。紙が滲む。色が濁る。線が見えない。そんな状態で描いた絵が、まともになるはずがない。
でも、筆は止まらなかった。
涙で滲んだ視界の中で、キャンバスの色も滲んでいく。蒼の輪郭が柔らかく崩れ、海の青と白い光と、透子の置いた赤が混ざる。
それでも、悪くないと思った。
初めて、そう思った。
整っていない。 上手くない。 狙い通りでもない。
でも、嘘ではない。
透子は描き続けた。
蒼の心を閉じ込めたいと思った。
忘れたくない。 あの声を、手を、横顔を、絵を描く姿を。 魔法を嫌いながら、それでも誰かを救おうとした蒼を。 自分の絵を描けるようにならなきゃいけないと言った蒼を。
閉じ込めたい。
このキャンバスの中に。 忘れないように。 遠くならないように。
けれど、筆を動かしているうちに、少しずつ違う気持ちが混ざっていった。
閉じ込めるだけでは足りない。
蒼は、向こうへ行った。 自分の絵と魔法に向き合うために。 逃げないために。
なら、この絵の中に閉じ込めてはいけない。
残すのだ。
透子の中にある蒼を、外へ出す。 キャンバスに残す。 見送るために。
悲しみだけではなかった。
蒼と出会えたことの優しさもあった。
初めて絵に光を見たときの驚き。 魔法だと聞いて落胆したこと。 技法を教えた日々。 アトリエの窓から一緒に見た海。 失敗したこと。 傷ついたこと。 それでも、目を逸らさずに描こうとしたこと。
悲しみだけでは描けない。
そう思った。
透子は、もう一度青を取った。
さっきより少し明るい青。 夏の海の青ではなく、朝が来る前の水面のような青。
蒼の横顔の奥に、薄く置く。
次に、黄色をほんの少し。
陽菜の傘のような強い黄色ではない。 商店街の光。 雨上がりの石畳に落ちた夏の日差し。 蒼が不意に笑ったとき、目元に浮かんだ小さな明るさ。
色が、画面の中で静かに広がった。
その瞬間、キャンバスが一瞬、輝いたように見えた。
透子は筆を止めた。
光。
あの不思議な煌めき。
けれど、それは本当にあったのか、わからなかった。
涙で視界が滲んでいたせいかもしれない。窓から差し込んだ夏の光が、濡れた絵の具に反射しただけかもしれない。あるいは、筆と絵の具にわずかに残った蒼の魔法が、最後に揺れたのかもしれない。
それとも。
透子自身の心が、初めて絵の中に滲んだのかもしれない。
どれでもよかった。
断定しなくていい。
透子はそう思った。
魔法かどうかを確かめるために描いているのではない。 上手いかどうかを確かめるためでもない。 評価されるかどうかでもない。
これは、自分の絵だった。
初めて、そう言える気がした。
透子は、最後に目元を描いた。
正確な蒼の目ではない。 別れ際に振り返ったときの、青い光の中の目。 透子の強がりを見抜いて、でも否定しなかった目。
ほんの少しだけ、口元を緩める。
微笑んでいるように。
でも、完全な笑顔ではない。 困ったようで、優しくて、少しだけ遠い。
それが、透子の知っている蒼だった。
筆を置く。
部屋の中に、波の音が聞こえた。
外の海の音だった。
普通の、夏の海の音。
透子は、完成した絵を見た。
キャンバスの中で、蒼は微笑んでいた。
顔は、写真のようには似ていない。そもそも写真などない。線はところどころ歪み、色は滲み、構図も完璧ではない。先生に見せたら、直すべきところはいくつも指摘されるだろう。
それでも、そこに蒼がいた。
透子の中に残っている蒼が。
もういない蒼が。
透子は、絵に向かって小さくうなずいた。
泣いていた。
いつの間にか、涙は頬を伝い、顎から落ちていた。袖で拭うことも忘れていた。けれど、泣きながらも、透子はほんの少し笑っていた。
胸の痛みは消えない。
蒼がいないことも変わらない。 水鏡の国から返事が来たわけでもない。 再会の約束があるわけでもない。
それでも、少しだけ息ができた。
蒼を思うことで、自分の心が壊れていくのではなく、少しずつ形になっていくのを感じた。
閉じ込めたいと思ったのは、蒼の心だった。
けれど描いているうちに、癒されていたのは透子自身の心だったのかもしれない。
窓から夏の光が差し込んだ。
白いカーテンがふわりと膨らむ。潮風が入り、濡れた絵の具の匂いと混ざった。キャンバスの上の青が、静かに明るくなる。
透子は、机の上の筆を見た。
魔法を失った筆。
ただの筆。
それなのに、この絵を描いた筆。
透子はそれをもう一度、手に取った。
涙はまだ止まっていなかった。 けれど、手は震えていなかった。
海の向こうから返事はなかった。それでも透子は、もう一度、筆を取った。