『アトリエ ~海の見えるアトリエ~』

第八章 ひとりでも平気

 梅雨明けは、まだ発表されていなかった。

 けれど街はもう、雨の季節の終わりを知っているようだった。

 朝、窓を開けると、空気の底に夏の匂いがあった。濡れた土や紫陽花の匂いではなく、熱を含み始めたアスファルトと、遠くの海から上がってくる塩の匂い。雲はまだ厚い。けれどその端は白くほどけ、ところどころから強い光がこぼれている。

 透子は制服のブラウスの襟を直しながら、窓の外を見た。

 いつもの街だった。

 住宅の屋根。  電線に止まる鳥。  坂の下へ続く道。  遠く、建物の隙間に見える海の色。

 でも、海だけが違った。

 朝の光を受けた海は、普通なら白く眩しく見えるはずだった。けれどその日は、水面の奥から青い光が滲んでいるように見えた。薄く、深く、触れれば指先から冷えていきそうな青。

 水鏡の国。

 蒼がそう呼んだ場所の気配が、少しずつこちらの世界へ混ざり始めていた。

 学校へ向かう道でも、前兆は続いた。

 商店街の手前にあるカーブミラーの表面で、波が引く音がした。車も通っていないのに、鏡の中だけが一瞬、海のように揺れた。透子が立ち止まると、そこには自分の制服姿と、後ろの坂道が映っているだけだった。

 金物屋の店先では、晴れているのに雨の匂いがした。

 いや、雨ではない。

 もっと濃い潮の匂い。  遠くの港ではなく、すぐ足元に海があるような匂い。

 八百屋の店先に並んだトマトの表面にも、青い光が小さく反射していた。光の角度のせいだと思えばそう思える。けれど透子には、それがただの反射ではないことがわかってしまう。

 街のあちこちに、水面ができている。

 目には見えないのに、そこだけ空気が薄く揺れている。

 前兆が強まっている。

 透子は、その言葉を胸の中で繰り返した。

 強まっているということは、近づいているということだ。  近づいているということは、終わりも近いということだ。

 その考えを、透子はすぐに押し込めた。

 学校では、いつも通りに振る舞った。

 授業を受け、ノートを取り、由衣に話しかけられれば返事をする。昼休みには購買で買ったパンを食べ、美術室では榊に夏休み中の課題について説明を受けた。

「三崎、聞いてるか」

 榊に言われて、透子は顔を上げた。

「聞いてます」

「本当か?」

「八月の頭に一度、制作途中を見せるんですよね」

「そこは聞いてたか」

 榊は少し眉を上げた。

「まあいい。お前、最近ずっと考えごとしてるな」

「そう見えますか」

「見える。絵も少し変わった」

 透子は、美術室の机に置いたスケッチブックを見た。

 そこには、まだ完成していない絵があった。佐伯の部屋を描こうとしたものではない。蒼の横顔でもない。海の見えるアトリエの窓辺でもない。

 ただ、白い紙の中央に、閉じた木箱が描かれていた。

 魔法の筆と絵の具が入っていた木箱。  けれどそれは、絵の中ではただの古い箱だった。鍵もない。光もない。置かれたまま、開けられないもの。

「悪くない」

 榊は言った。

 透子は少し驚いて、先生を見た。

「これがですか」

「まだ途中だろ」

「はい」

「なら、途中のままちゃんと見ろ。すぐ完成させようとするな」

 透子は返事をしなかった。

 すぐ完成させようとするな。

 その言葉は、今の透子に必要なものだったのかもしれない。けれど、それを受け止めるには、胸の中が別のことでいっぱいだった。

 放課後になると、透子は鞄を持って教室を出た。

 由衣が後ろから声をかける。

「今日も用事?」

「うん」

「海の方?」

 透子は足を止めた。

 振り返ると、由衣は特に深い意味もなさそうな顔で立っていた。

「なんとなく。最近、そっち行ってるっぽいから」

「うん。海の方」

「そっか。気をつけてね。梅雨明け前って、急に降るし」

「ありがとう」

 そう答えたあと、透子は少しだけ喉が詰まった。

 気をつけてね。

 ただそれだけの言葉が、なぜか遠いものに聞こえた。透子の周りでは、普通の日常が続いている。終業式が近く、夏休みが近く、部活の予定や宿題や、祭りの話がある。

 その同じ街で、蒼は帰る準備をしている。

 水鏡の国へ。

 次にいつ会えるかわからない場所へ。

 透子は、坂道を下った。

 石畳は乾いていた。けれど、目地の間には青い影があるように見えた。風鈴が鳴り、商店街の軒先の影が長く伸びている。晴れているのに、どこかで波の音がする。

 喫茶店の前で、佳乃が店先の鉢植えに水をやっていた。

 透子を見ると、彼女は少しだけ目を細めた。

「蒼くん、上にいるわ」

「ありがとうございます」

「今日は、朝から片づけていたみたい」

 透子の胸が、きゅっと縮んだ。

 片づけ。

 それは、帰る準備の別の言い方だった。

 佳乃はそれ以上何も言わなかった。ただ、水やりの手を止めて、透子の顔を静かに見た。その目には、同情ではなく、見守るような落ち着きがあった。

 透子は会釈して、路地へ向かった。

 外階段を上がると、アトリエの扉は開いていた。

 中に入ると、部屋はいつもより整っていた。

 床に散らばっていた紙片がまとめられ、棚の上の画集も積み直されている。窓際の机には、木箱と、数冊のスケッチブック。水入れは空で、逆さに伏せられていた。絵の具の匂いは薄く、代わりに潮風の匂いが強い。

 蒼は、棚の前で紙を束ねていた。

 透子に気づくと、少しだけ手を止める。

「来たんだ」

「来るよ」

「うん」

 短い会話だった。

 透子は部屋を見回した。

「片づけてる」

「少しだけ」

「少しじゃない」

「そうかな」

「そうだよ」

 蒼は困ったように笑った。

 その笑い方が、いつもと同じであることが、かえって透子の胸を痛くした。

「何を持って帰るの」

 透子は聞いた。

 蒼は束ねた紙を見た。

「ほとんどは置いていく」

「持って帰らないの?」

「向こうへ持って行けるものは限られてる。紙は湿気で駄目になるかもしれないし」

「じゃあ、何を持って行くの」

「手紙と、少しだけ」

 少しだけ。

 その曖昧さが、透子には嫌だった。

 もっと具体的に言ってほしかった。何を持っていくのか、何を置いていくのか。どの日に行くのか。どうやって行くのか。何時に、どこで、誰が見送るのか。

 形があれば、まだ耐えられるかもしれない。

 でも別れは、まだ形になっていないまま、部屋の隅に置かれている。

「今日、描く?」

 蒼が言った。

 透子は少し驚いた。

「描けるの?」

「わからない」

「じゃあ、どうして聞いたの」

「描かないと、後悔しそうだから」

 その言葉に、透子は何も言えなくなった。

 蒼は窓際の椅子を引き、スケッチブックを開いた。魔具の木箱には触れない。机の端にある普通の鉛筆を取る。

 透子はその手元を見た。

「何を描くの」

 蒼は少し迷った。

 それから透子を見た。

「三崎さん」

「私?」

「うん」

「なんで」

「描きたいから」

 あまりにもまっすぐ言われて、透子は返事に詰まった。

 顔が熱くなるのがわかる。

「急に何」

「急じゃない。ずっと描こうと思ってた」

「いつから」

「最初に会った日から」

「それは急じゃないけど、今言うのは急」

 蒼は少しだけ笑った。

「だめ?」

「だめでは……ないけど」

 透子は視線を逸らした。

 描かれることには慣れていない。絵を描く側でいることの方が圧倒的に多い。美術部でクロッキーのモデルになることはあるが、それとは違う。

 蒼に描かれる。

 それだけで、落ち着かなかった。

「似顔絵?」

「似顔絵というより、横顔」

「正面じゃないんだ」

「三崎さん、海を見るとき、横顔の方がいい」

「何それ」

「そう思った」

 透子は少しむっとしたふりをした。

「勝手に分析しないで」

「いつも僕の絵を分析してるのに」

「それは絵だから」

「顔も見る」

「見ないで」

「描けない」

「じゃあ描かないで」

 言いながら、透子は椅子に座った。

 窓の方を向く。

 海が見える。

 アトリエの窓から見える海は、今日も青く光っていた。普通の海の色に見せかけながら、奥に違う世界の水を含んでいる。水平線が、鏡の縁のように揺れている。

「そのまま?」

 蒼が聞く。

「そのままって言われると動きたくなる」

「動いてもいいよ」

「描きにくいでしょ」

「うん」

「じゃあ、動かない」

 透子は窓の外を見るふりをした。

 本当は、背中の方にある蒼の視線が気になって仕方なかった。

 鉛筆が紙に触れる音がする。

 しゃっ、という細い音。

 透子は、その音を聞いていた。

 蒼が魔具を使わずに描くときの音。  迷いながら、確かめながら、紙の上に線を置く音。

 いつもなら、透子はその線を見たいと思う。形が取れているか、重心はどうか、どこに迷いがあるか。すぐに覗き込んで、何か言いたくなる。

 でも今は、見ない。

 見たら、この時間が終わってしまう気がした。

 蒼はしばらく黙って描いていた。

 鉛筆の音は、最初はゆっくりだった。額の線。鼻筋。唇。顎。髪の輪郭。たぶんそんなところを取っているのだろう。透子は自分の横顔を想像しながら、変な気持ちになった。

 自分の顔は、どんな線になるのだろう。

 評価される絵ではない。  賞を取るための絵でもない。  誰かの記憶を支えるための絵でもない。

 蒼が、描きたいと言った絵。

 それだけで、透子の胸の奥が少し苦しくなった。

「動いた」

 蒼が言った。

「動いてない」

「今、口が動いた」

「息しただけ」

「息はしていい」

「許可制?」

 蒼が小さく笑った。

 透子も笑いそうになった。

 けれど、次の瞬間、鉛筆の音が止まった。

 沈黙。

 透子は振り返りそうになったが、我慢した。

「どうしたの」

 返事がない。

「湊くん?」

「……少し」

 蒼の声が低かった。

「見ないで」

 そう言われると、透子は余計に振り返りたくなった。

 でも、振り返らなかった。

 かわりに窓の外の海を見つめた。

 アトリエの中に、鉛筆の音が戻る。  けれどさっきより不安定だった。

 線を引いては止まり、消してはまた描く。紙の表面を消しゴムが擦る音がする。蒼は何度も息を止め、また小さく吐いている。

 描けないのだと、透子にはわかった。

 形が取れないのではない。横顔を描く技術なら、以前よりずっと上達している。透子が教えた骨格や重心や光の見方を、蒼はもうかなり身につけていた。

 描けない理由は、別のところにある。

 透子はゆっくり振り返った。

 蒼はスケッチブックを伏せようとしたが、少し遅かった。

 紙の上に、透子の横顔があった。

 まだ途中だった。線は迷い、髪の輪郭は何度も描き直され、目元は曖昧だ。鼻筋も少し違う。完成には遠い。

 けれど、その絵の目元のあたりに、かすかな光が滲んでいた。

 ほんの少し。

 陽菜の絵のような強い光ではない。千枝の夫の絵のように深い光でもない。もっと淡く、ためらいがちで、描き手本人が気づかれたくないと思っているような光。

 透子には見えた。

 紙の繊維の奥で、小さく震えている煌めき。

 蒼も、それに気づいている。

 だから筆を止めたのだ。

 いや、鉛筆を。

 魔具ではない。  普通の鉛筆だ。

 それでも、光が滲んでいる。

「光ってる」

 透子は言った。

 蒼の顔が少し強張った。

「やっぱり」

「うん。少しだけ」

「ごめん」

「どうして謝るの」

「描くつもりじゃなかった」

「私を?」

「そうじゃなくて、魔法を」

 蒼はスケッチブックを見下ろした。

「普通に描きたかった。ちゃんと、自分の手で。なのに」

「別に、光っててもいいじゃない」

 透子は思わず言った。

 蒼が顔を上げる。

「魔具を使ったわけじゃない。勝手に強くなってるわけでもない。佐伯さんの絵みたいな光じゃない。なら、いいじゃない」

 蒼は答えられなかった。

 透子は、紙の上の自分を見た。

 似ていないところはいくつもある。目の形も違う。顎の線も少し頼りない。髪のまとまりも甘い。透子なら直したくなるところばかりだ。

 でも、その絵を直したいとは思わなかった。

 未完成で、迷っていて、光が少し滲んでいて。

 それが、蒼が今見ている自分なのだと思った。

 そう考えると、胸の奥が熱くなった。

 嬉しい、という言葉では足りない。  悲しい、という言葉でも足りない。

 もうすぐいなくなる人が、自分を描こうとしている。  描けないほど、思い入れが混ざっている。

 そのことが、言葉にならない場所で痛かった。

「描き直す?」

 蒼が聞いた。

 透子は首を横に振った。

「そのままでいい」

「まだ途中だよ」

「途中でいい」

「でも」

「そのまま置いておいて」

 蒼は何か言いかけて、やめた。

 スケッチブックを閉じず、ページを開いたまま机に置く。光はすぐに弱くなり、紙の上にはただの鉛筆の線だけが残ったように見えた。

 それでも透子には、そこにさっきの煌めきがあったことが忘れられなかった。

 しばらくして、蒼は木箱を机の中央に置いた。

 透子は、それを見るだけで胸が重くなった。

「また、その話?」

「うん」

「今日はいい」

「今日、話しておきたい」

 蒼の声は静かだった。

 透子は黙った。

 木箱の蓋が開く。

 中には、魔法の筆と絵の具があった。  ただし、以前ほど強い気配はない。水鏡の国からの前兆が強まっているせいか、光は奥へ引いているようだった。筆も絵の具も、どこか静かに眠っている。

「扉が開くとき、魔具の核は向こうへ戻ると思う」

 蒼は言った。

「そうすると、この筆と絵の具には、ほとんど魔法は残らない。普通の画材に近くなる」

「近くなるってことは、少しは残るの?」

「わからない。たぶん、透子には光が見えるかもしれない。でも、人の心を動かす力はほとんどないはず」

 透子は、筆を見た。

 初めて見たとき、胸がときめいた。  古い木の軸。青く光る毛先。眠っている生き物のような気配。

 あのときは、これが魔法の道具だとは知らなかった。

 今は知っている。

 この筆が、どれほど美しい絵を生み、どれほど危ういものを閉じ込めるかを。

「それを、私に残すの」

「もし、受け取ってくれるなら」

「どうして」

「君に持っていてほしいと思った」

 透子は顔を上げた。

 蒼は、まっすぐこちらを見ていた。

「魔法がなくなったら、ただの筆と絵の具になる。それでも、君が描くときに使ってくれたらいいと思った」

「私は、まだ描けない」

「うん」

「心を込めることも、思い出を描くことも、全然できてない」

「うん」

「そんな私に残してどうするの」

 蒼は少しだけ考えた。

「描けないって言いながらでも、君は見てるから」

 また同じ言葉だった。

 透子は笑えなかった。

「それ、理由になってない」

「僕には、理由になってる」

「ずるい」

「うん」

 蒼は否定しなかった。

 透子は、木箱へ手を伸ばしかけた。

 指先が筆に触れる寸前で止まる。

 受け取れば、何かが決まってしまう気がした。

 蒼がいなくなること。  この筆と絵の具だけが残ること。  アトリエでひとりになった自分が、それを前に座ること。

 そんな未来を、今ここで認めることになる。

 透子は手を引いた。

「いらない」

 蒼の表情が少しだけ動いた。

 透子はすぐに言い直した。

「いらない、じゃなくて……今は、受け取らない」

「うん」

「まだ」

 喉が詰まる。

 それでも、透子は続けた。

「まだ明日があるから」

 蒼は、何も言わなかった。

 その沈黙で、透子はわかってしまう。

 蒼は知っているのだ。

 その明日が、最後かもしれないことを。

 でも透子は、言ってしまった。

 まだ明日があるから。

 それは、拒絶ではなかった。  受け取りたくないわけではなかった。  ただ、今日受け取ってしまえば、本当に別れが来ると認めることになる。

 だから先延ばしにした。

 一日だけでも。  ほんの少しだけでも。

 蒼は木箱を閉じた。

「わかった」

 声は穏やかだった。

 透子は、その穏やかさが苦しかった。

 夕方、透子はアトリエを出た。

 帰り道、空には濃い雲が広がっていた。西の端だけが明るく、そこから射す光が商店街の屋根を白く照らしている。風鈴が鳴り、魚屋の店主が店じまいの準備をしていた。

 何もかもが普通だった。

 それがつらかった。

 夜になって、透子は自室でスケッチブックを開いた。

 何かを描こうとした。

 けれど、鉛筆は動かなかった。

 蒼が描いた途中の横顔が、頭から離れない。紙の上に滲んだ小さな光。描けないほどの思い入れ。あの未完成の線。

 透子は何も描けないまま、窓を開けた。

 外は湿った夜だった。

 遠くで波の音がする。

 ここから海は見えないはずなのに、波の音だけが近い。

 そのころ、海の見えるアトリエでは、窓ガラスに見知らぬ海が映っていた。

 蒼は、ひとりで窓の前に立っていた。

 外にあるのは、いつもの港のはずだった。堤防、小さな船、倉庫の灯り。けれど窓に映っている海は、それとは違っていた。

 青く、深く、風もないのに波紋が広がっている。

 空には見たことのない細い月があり、水面には無数の光が沈んでいた。

 それは、この世界の海ではなかった。

 水鏡の国の海。

 蒼は、窓に映るその海を見つめたまま、机の上の木箱へ目を向けた。

 閉じられた木箱のそばには、描きかけのスケッチブックがある。

 透子の横顔。

 未完成の線。

 かすかな光はもう見えない。

 けれど、そこには確かに、描き切れなかったものが残っていた。


 その日の夕方、雨が降った。

 激しい雨ではなかった。梅雨の終わりに残った湿り気が、街の上へ薄く落ちてくるような雨だった。屋根を叩く音も弱く、窓ガラスを流れる水滴も細い。けれど、雨が上がったあと、街はすっかり濡れていた。

 石畳の目地に水が残り、商店街のアーケードには雨粒が光っていた。魚屋の看板の下から、ぽたり、ぽたりと水が落ちる。閉店後のシャッターには、街灯の光が滲んでいた。

 透子が家を出たころには、空の低い雲がゆっくり割れ始めていた。

 夜なのに、海の方が青く明るい。

 それは月明かりではなかった。街灯でも、港の灯りでもない。水そのものが、遠くで呼吸するように光っている。坂の下から、潮の匂いが強く上がってきた。

 夏の始まりの匂いだった。

 濡れたアスファルト。  雨上がりの草。  遠い海。  そして、何かが開こうとしている気配。

 透子は鞄を持たずに家を出ていた。

 手には、何も持っていない。

 それが少し心細かった。けれど、スケッチブックを持っていくことはできなかった。今日、何かを描くわけではない。描けるわけでもない。そう思うと、鞄の重ささえ邪魔になる気がした。

 商店街を抜ける。

 いつもならまだ明かりのついている店も、今日は早く閉まっていた。雨のせいかもしれない。あるいは、この街の人たちも、何かが近づいていることを、言葉にできないまま感じているのかもしれない。

 金物屋の軒先に吊るされた丸い鏡が、透子の姿を映した。

 制服ではなかった。白いブラウスに、薄い紺色のスカート。髪は湿気で少しまとまりがない。顔色は、自分でもわかるくらい悪かった。

 鏡の中で、透子の背後に波が立った。

 振り返っても、そこには雨上がりの商店街しかない。けれど鏡の中だけ、水面が揺れている。青く、深く、見たことのない海。

 透子はその鏡から目を逸らし、坂道を下った。

 アトリエの白い建物が見えるころ、外階段の下に佳乃が立っていた。

 紺色のエプロンはしていなかった。白いシャツに、薄い灰色のカーディガン。いつもの喫茶店の店主ではなく、誰かを見送るためにそこにいる人の姿だった。

 佳乃は透子を見ると、静かに頷いた。

「来たのね」

「はい」

 透子の声は、自分でも驚くほど小さかった。

「蒼くんは?」

「上にいるわ。もう少ししたら、港の方へ行くと言っていた」

「港……」

「扉は、水のあるところに開きやすいの。今夜は、海が近い」

 佳乃はそう言って、アトリエの窓を見上げた。

 二階の窓には、見知らぬ海が映っていた。

 外にある港ではない。雨上がりの街でもない。青い水面。遠くに沈む光。水に浮かぶ細い月のようなもの。窓ガラスの向こうに、別の夜が重なっている。

「本当に、行くんですね」

 透子は言った。

 佳乃はすぐには答えなかった。

「蒼くんが決めたことよ」

「わかってます」

 わかっている。

 その言葉は、この数日で何度も自分に言い聞かせた。

 蒼は逃げるために行くのではない。罰として連れ戻されるのでもない。魔具の意味を学び、自分の絵と魔法に向き合うために戻る。

 だから、止めてはいけない。

 わかっている。

 わかっているのに、胸の奥はずっと納得していなかった。

 佳乃は透子の顔を見て、少しだけ目を細めた。

「わかっていても、つらいものはつらいわ」

 透子は返事をしなかった。

 何か言えば、声が崩れそうだった。

 外階段を上がると、扉は開いていた。

 アトリエの中には、ほとんど荷物が残っていなかった。

 いや、もともと多い部屋ではなかった。けれど今日は、見慣れた紙束や布や空き瓶の位置が違っていて、それだけで部屋が遠く感じられた。床の絵の具の染み、窓辺の机、白いカーテン。全部同じなのに、もう誰かが去ったあとの部屋のようだった。

 蒼は机の前に立っていた。

 白いシャツに、濃い紺色のズボン。いつもと変わらない服装だった。小さな鞄を肩にかけている。持ち物はそれだけだった。

 机の上には、木箱が置かれていた。

 透子が入ると、蒼は振り返った。

「来てくれたんだ」

「来るよ」

「うん」

 また、短い会話。

 それでも、その短さの中に、これまでの時間が詰まっている気がした。

 初めて会った広場。  布で隠されたおばあさんの絵。  石の絵。  赤い丸、青い三角、黄色い四角。  千枝の夫。  陽菜の絵。  佐伯の背中。  蒼が描いた透子の横顔。

 どれも、ここから始まった。

 蒼は木箱の蓋を開けた。

 中には、筆と絵の具があった。

 けれど、その気配はもうかなり薄い。以前のような、胸の奥を撫でるような高鳴りはない。筆の軸は古い木で、絵の具は小さな金属ケースに収まっている。ただそれだけに見える。

 それでも透子には、かすかに光が見えた。

 消えかけた星のような光。

「これ」

 蒼は筆と絵の具を取り出した。

「やっぱり、透子に渡したい」

 初めて、名前で呼ばれた。

 透子は、そのことに一瞬だけ動揺した。

 けれど何も言えなかった。

 蒼は、筆を両手で持った。まるで、長い間一緒にいたものへ別れを告げるように。

「魔法の力は、たぶん僕と一緒に戻る。正確には、魔具の核が向こうへ戻る。だから、ここに残るのはただの筆と絵の具に近いものになる」

「そんなものを持っていても」

 透子は言った。

「私は、魔法なんて描けないよ」

「うん」

「人の心を動かす絵も描けない」

「うん」

「心を込める方法だって、まだわからない」

「うん」

 蒼は、ひとつずつ頷いた。

 否定してほしかったわけではない。  でも、頷かれると少し腹が立った。

「じゃあ、どうして」

「魔法がなくても、君なら描ける」

 蒼は言った。

 その声は、静かで、まっすぐだった。

 透子は視線を落とした。

「信じられないって言った」

「うん」

「今も信じられない」

「それでも、僕はそう思ってる」

「ずるい」

「うん」

 また、同じ言葉。

 透子は笑おうとした。  けれど笑えなかった。

 喉の奥が痛い。目の奥が熱い。泣きそうになる。泣きたくない。ここで泣いたら、蒼を困らせる。蒼の決断を鈍らせてしまう。そう思って、透子は必死にまばたきをした。

 蒼は筆と絵の具を、机の上の布に包んだ。

「僕は向こうで、魔具のことを学ぶ。記憶を閉じ込めるんじゃなくて、支えるためにどう使うのか。自分の絵と、魔法が混ざることをどう受け止めるのか」

 彼は一度、言葉を切った。

「逃げないようにする」

 その言葉に、透子は胸が痛くなった。

 止めたい。

 本当は、今でも止めたい。

 逃げなくていい。  ここにいてもいい。  一緒に考えればいい。  魔具なんてなくても、描けばいい。

 そんな言葉が、喉まで来た。

 けれど言えなかった。

 蒼は逃げないために行く。

 そのことを、透子はわかってしまっている。

「帰ってくる?」

 透子は聞いた。

 聞かずにはいられなかった。

 蒼は、少しだけ目を伏せた。

「帰りたい」

「帰れるかどうかを聞いてる」

「わからない」

 正直な答えだった。

 今は、その正直さがつらかった。

「次に扉が開くのがいつか、僕にもわからない。数年後かもしれないし、それ以上かもしれない」

「手紙は?」

「送れると思う。すぐには届かないけど」

「電話は?」

「無理」

「便利じゃないね、魔法」

「うん」

 蒼は少しだけ笑った。

 透子も、今度はほんの少しだけ笑えた。

 それだけで、胸がまた痛くなる。

 こんな会話を、もっとたくさんしたかった。  絵のことでも、魔法のことでもなく、どうでもいいことを。

 風が入ってきた。

 窓の外の海が、青く揺れる。アトリエの窓ガラスには、もうこの世界の港と、水鏡の国の海が半分ずつ映っていた。雨上がりの港の灯りと、見知らぬ青い水面が重なっている。

 下から、佳乃の声がした。

「蒼くん」

 時間だ、と言われたわけではない。

 けれど、そう聞こえた。

 蒼は木箱の蓋を閉じた。

 筆と絵の具を包んだ布だけを、机に残す。

 透子はそれを見た。

 まだ、受け取れなかった。

 けれど、もう拒むこともできなかった。

 ふたりはアトリエを出た。

 外階段を下りると、佳乃が待っていた。彼女は何も言わず、蒼の肩にそっと手を置いた。

「気をつけて」

「はい」

「向こうで、ちゃんと叱られてきなさい」

 蒼が少し驚いた顔をした。

 佳乃は淡く笑う。

「学ぶというのは、そういうことでもあるでしょう」

「……はい」

 蒼は深く頭を下げた。

「お世話になりました」

「まだ終わりみたいに言わないの」

 佳乃の声は穏やかだった。

 けれど、その目には光るものがあった。

 港へ向かう道は、雨に濡れていた。

 石畳の水たまりには、こちらの街灯と、向こう側の青い光が一緒に映っている。踏むと、水面が揺れ、そのたびに見知らぬ海の影が広がった。商店街のシャッターも、喫茶店の窓も、カーブミラーも、すべてが少しずつ水面になっていた。

 世界が、向こう側を映し始めている。

 透子は蒼の隣を歩いた。

 何か話さなければと思うのに、何も言えない。

 言えば終わってしまう。  言わなくても、終わりは近づいている。

 港に着くと、波はほとんど音を立てていなかった。

 雨上がりの夜の海。  堤防の上の細い街灯。  濡れたロープ。  遠くの船の影。

 そして、水面の中央に、青い光があった。

 派手な扉ではなかった。

 空が割れるわけでも、光の柱が立つわけでもない。海面の一部が、鏡のように静かになっているだけだった。波がそこだけ避けて通り、青い円が薄く広がっている。

 その中に、別の海が映っていた。

 星の沈んだ水面。  細い月。  遠くに揺れる灯り。  見たことのない岸辺。

 水鏡の国。

 透子は、それを初めて見た。

 美しいと思った。

 同時に、憎いと思った。

 蒼を連れていく場所だから。

 佳乃は少し離れたところで立ち止まった。これ以上は、ふたりで話せということなのだろう。

 蒼は透子の方を向いた。

 手には、布に包まれた筆と絵の具がある。

 いつの間に持ってきたのか、透子は気づかなかった。

「透子」

 蒼は言った。

 また、名前。

 今度は、胸の奥が痛むだけだった。

「受け取って」

 透子は、布包みを見た。

 小さな包みだった。

 こんなに小さいものに、今までの時間が全部入っているように見えた。

「持っていても、魔法は描けない」

「うん」

「それでも?」

「それでも」

 透子はゆっくり手を伸ばした。

 指先が布に触れる。

 少し湿っていた。海風のせいかもしれない。中の筆の硬さと、金属ケースの冷たさが伝わってくる。

 蒼の手が離れた。

 その瞬間、透子は本当に何かを受け取ってしまったのだと思った。

 筆と絵の具だけではない。

 蒼がここにいた時間。  描きかけの横顔。  魔法の光。  佐伯の部屋の痛み。  千枝の涙。  まだ描けていない自分の絵。

 全部が、手の中に来た。

 重かった。

「ひとりでも」

 透子は言った。

 声が少し掠れた。

 蒼が彼女を見る。

 透子は布包みを胸に抱えた。

「ひとりでも平気」

 嘘だった。

 自分でもわかるほど、下手な嘘だった。

 けれど、それ以外に言える言葉がなかった。

 行かないでと言えば、蒼は苦しむ。  待ってると言えば、自分が壊れそうになる。  さよならと言えば、本当に終わってしまう。

 だから、透子は平気だと言った。

 蒼は、その強がりを見抜いていた。

 きっと全部わかっていた。

 それでも、否定しなかった。

「うん」

 彼は静かに言った。

「透子なら、大丈夫」

 その言葉を聞いた瞬間、透子は泣きそうになった。

 大丈夫ではない。

 そう叫びたかった。

 けれど、唇を噛んでこらえた。

 蒼は少しだけ手を伸ばしかけた。透子の頭に触れるのか、肩に触れるのか、自分でもわからなかったのかもしれない。結局、その手は途中で止まり、ゆっくり下ろされた。

 それでよかった。

 触れられたら、泣いてしまう。

 水面の青い光が、少し強くなった。

 佳乃が、離れた場所で小さく息を吸ったのが見えた。

 蒼は振り返り、水面へ向かった。

 普通なら、海へ足を踏み入れるはずだった。けれど彼の足元では、水が静かに固まったように揺れ、薄い鏡の上を歩くように彼を受け止めた。

 一歩。  二歩。

 蒼の姿が、青い光の中へ入っていく。

 透子は動けなかった。

 布包みを握りしめたまま、ただ見ていた。

 蒼が、途中で振り返った。

 青い光の中で、彼の輪郭は少し揺れていた。髪が水面の光を受けて、本当に青く見える。顔ははっきり見えるのに、もう遠い。

 透子は笑おうとした。

 泣かないように。  平気だと言った自分に、少しでも近づくために。

 口元を上げる。

 うまく笑えたかどうかはわからなかった。

 蒼は、その顔を見て、ほんの少しだけ微笑んだ。

 そして、向こう側へ歩いていった。

 水面が揺れる。

 青い光が、一度だけ強く広がる。

 蒼の姿が、波紋の向こうに溶けるように薄くなった。

 最後に、白いシャツの袖が見えた。  それから、指先。  髪の青い影。  もう一度だけ、こちらを向いた目。

 次の瞬間、光が消えた。

 海は、普通の夜の海に戻っていた。

 波が堤防に当たり、小さな音を立てる。  街灯の光が、水面に細く揺れている。  遠くで船のエンジンが鳴る。

 何もなかったような夜だった。

 蒼だけが、いなかった。

 透子はその場に立っていた。

 泣かなかった。

 手の中の布包みを、強く握りしめる。中の筆と絵の具が、胸の骨に当たる。痛いくらいだった。でも、その痛みがなければ、自分の体がどこにあるのかわからなくなりそうだった。

 佳乃が近づいてきた。

 何も言わず、少し離れたところで立ち止まる。

 透子は、海を見たまま言った。

「帰ります」

 声は思ったより普通に出た。

 佳乃は静かに頷いた。

「気をつけて」

「はい」

 透子は港を離れた。

 坂道を上る。

 雨上がりの石畳に、街灯の光が滲んでいる。水たまりにはもう見知らぬ海は映っていなかった。ただ、この街の夜だけが映っている。

 商店街は静かだった。

 風鈴も鳴っていない。シャッターも揺れない。カーブミラーには、濡れた坂道と、筆と絵の具を抱えた透子だけが映っている。

 前兆は消えていた。

 すべて終わったのだと、街が告げているようだった。

 透子は歩いた。

 一歩ずつ。

 泣かなかった。

 港でも、商店街でも、喫茶店の前でも、泣かなかった。

 けれど、坂の途中の街灯の下で、足が止まった。

 そこは、いつか蒼が路上で絵を描いていた広場へ続く道だった。雨上がりの石畳。花壇。白い壁。風鈴。黄色いレインコートの子どもを描いていた日。

 全部が、急に思い出になった。

 透子は布包みを胸に抱え直した。

「ひとりでも平気」

 もう一度、呟いた。

 声は夜の中に落ちた。

 けれど、その言葉は自分のところまで戻ってこなかった。

 平気ではなかった。

 まったく、平気ではなかった。

 街灯の下で、透子はしばらく動けなかった。  雨上がりの道に、夏の始まりの匂いだけが静かに残っていた。